「 善意のパワー 」


 今の世の中、
全体的にみんなイラついているような気がする。
 みんな、毎日の生活にストレスを抱え、
それが発散されることなく蓄積し、
爆発寸前の状態にいる人が大勢いる。

 もう、堪忍袋がパンパンにふくらみきり、
向こうが透けるくらい薄く薄くなっていて、
ちょっとのきっかけで【BOMB!!】という状態。

 かく言う私もそのひとりだが、
家庭の中で威張っているくらいで収まっているが、
これもあまりいい状態とは思えない。

 社会では、
学校や病院や隣近所や通りすがりの人々に、
理不尽な【爆発】をする人が増えているという。

 昔から、
「シラフだとおとなしいのに、酒飲むと暴れる」
とか、
「外ではいい人なのに、家庭では暴れる」
とか、
「偉い人には腰が低いのに、弱い者には威張り散らす」
とかいう人種はおおぜいいたが、
そういった人たちとはまた違う、
嫌な野郎どもが増えているらしい。

 そういえば、
私の知っている中にも、そういう人がたくさんいる。

 夫や子供たちに優しく、
家庭円満の中心に居る「いい奥さん」なのに、
パート先では、言いたい放題、毒吐き放題の女。

 イジメ・意地悪「標準仕様」の人。

 保母の仕事で頑張りつつも、
自分の子供の学校では、「モンスターペアレンツ」をやっちゃう人。

 毎日家の前をきれいにほうきで掃きながら、
「あの医者は、ヤブだから、治療費払わないのさ」
と、ニコニコ話す近所のおじいさん。

 み〜〜〜〜〜〜んな普通の顔した、普通のかたぎの人たちばかり。

 一見、「善良な市民」ばかりだ。

 しかし、その笑顔の奥の奥にある、
無自覚なエゴイズムが、
この時代をおかしくしていることに、
誰も気づいていない。

 自分の敷地内、
自分の家族内、
自分の管理領域は、
きっちりしっかり守る立派な人ばかり。

 自分の領域をクリーンに保つことが一番大事で、
そこで出たゴミを、隣合う領域に平然と廃棄するような行為を、
恥をと思わない、「偽の善人」たちだ。

 そういう人たちを「一般市民」と認めてしまうと、
自分の所だけ良ければそれでよし、
という彼らの理念(=エゴ)が、
この時代の一般になってしまう。

 博愛心で働く人を、いきなり正面から袈裟斬りし、
公共心で汗流す人の背中を、思い切り蹴り飛ばすような人が、
「自分は正義だ、これは正当なクレーム行為だ」
と放言し、堂々と行う暴力は、
決して「一般」化してはならないし、
断じて許してはいけないと思う。

 そんな人たちを、善意の人たちの中に野放しにしてはいけないと思う。

 こんな人たちが増えたのを、
世の中が忙しくなりすぎたことや、
競争社会であることからくるストレスのせいばかりにしてはいけない。

 生まれ育った家庭のせいばかりには、
していられない。

 問題は、過去じゃない。

 未来へ続く今このとき、
「自分は一体、どうなんだ?!」
ということなのだ。

 ストレスに晒され過ぎて、
過剰に自己防衛本能が発達したのか、
社会の最小単位である家庭内ですら、
「自分さえ良ければ」が蔓延し、
守りあう、助け合う、という機能が働いていない現状。

 愛情を示し、教える機能が失われた家庭。
 子供にエゴの通し方は教えられても、
無償の愛を教えられる人がいない状況。

 これどうなんだよ?!

と、いうことだ。

 私自身、自分に対しても、
「何やってんだ一体!」
と、歯がゆく思う。


 ああ。

 安心できる大人が、
自分の周りに一体何人いるのだろう?

 自分の親は?
 先生は?
 近所のおじさんおばさんは?
 役所の人は?
 おまわりさんは?

 一体、誰が、ちゃんとした大人なのか?

 それがわからない、
ひとりも見当たらない、
そばに安心できる大人が誰もいない、
という子供の心に、
愛は育つのだろうか?

 エゴや処世術は形成されても、
無為の愛というものを、
一生知らずに終える人が、
おおぜいいるだろう。

 哀しいことだ。

 こういう現状を打破するのは、誰だ?

 それは、他の誰でもなく、
社会の流れでもなく、
自分だけだ。

 自分だけが、
この哀しく、痛い時代を変えられるのだ。

 そう思う「自分」が、
各家庭にひとり、
各職場にひとり、
各教室にひとり、
各地域にひとり、
各国にひとり、
まずは、ひとりだけでも、いればいい。

 善意には、パワーがある。
 自己チューを廃した高い意識には、
悪意やエゴを跳ね除ける「正の魔力」がある。

 神様、仏様、ご先祖様に、ヤオヨロズの神様も、
味方してくれるはずだ。

 いきなり効果は現れないけれど、
自分ひとりでも「愛」という後ろ盾を持ち、
正々堂々と「善意」で生きていこう。

 意識は、人から人へと、うつる。
 伝染病のように、
善意を感染させていこう。

 難しいことは、何も無い。

 実にシンプル。

 しかし、間違いやすい。

 自己満足の偽善ではなく、
自己顕示の慈善事業でもなく、
ただただ、クリアな善意で。

 人と会ったら、まずあいさつ。
 お世話になったら、すぐお礼。
 迷惑かけたら、すぐあやまる。

 人によかれと思うことをする。
 
 相手と意見が違ったら、冷静に話し合う。
 理不尽な暴力には、道理に合った説得を。
 それでもだめなら、誰かに相談。

 善意は、人を守ってくれる。
 「エゴではなく、本当に正しい行いをしている」
という思いは、
自信の無い人間にも、強い勇気を奮い起こさせる。

 だから、気の弱い人ほど、
善意で生きる方がいい。
 善意は、正々堂々と生きるためのパスポートであり、
顔をまっすぐ上げて歩ける、心の杖にもなる。

 自己チューでない、正々堂々の善意の行動は、
誰にも後ろ暗い思いはしないし、
悪意に対して「上から目線」で「どうしたのチミ?」と思えるし、
第一、心強く、美しく、まっすぐで、心地が良い。


 ここでひとつ、私の体験した「善意の力」を紹介。

 風呂場の工事をする前に、
隣近所に「ご迷惑おかけします」と頭を下げて回った時、
気まずい関係だった横の家の人にも
「エイッ」と気合を入れて頭を下げたら、
意外にも、相手の態度が急に軟化した。
 長年の冷戦が一瞬で収束し、
それ以来、お互い、笑顔で世間話をする間柄になった。

 細かいことをいろいろ言い出せば、
あっちが悪い、こっちが悪い、となるけれど、
しのごの言わず、正々堂々筋を通したら、
あっさり仲直りできた。

 はい、これ、善意の力。


 以前子だくさんコーナーの中で「ぐやじ〜」という話を書いたが、
その相手の託児所オーナーとは、
近所のため、すれ違うことが多い。

 なるべく道でかち合わないように
キョロキョロ確認してから外に出ていたのだが、
そんな怯える生活に納得できすにいた。
 あの傲慢で暴力的なオーナーのことを考えるたびに、
胸が苦しくなり、憂鬱な気分になるのも悔しかった。
 また、相手がいつも睨みつけてくることに対して、
気づかぬ振りで通り過ぎることばかりしていたが、
「なんでこっちがこそこそしなくちゃいけないんだよ、
こそこそしなくちゃいけないのは、そっちだろ」
という思いもあった。

 しかし、変な逆恨みから、
四男がまた何かされてはいけないから、
アイツの心の中から、
こちらの存在を消さねばならない、と思って、
ひたすら我慢していた。

 しかし、だ。

 何だか、そういうのも卑屈で良くないような気がしてきた。
 何も悪いことはしていないし、
四男が彼女にされたことに対しては、ちゃんと抗議したし、
その抗議が感情的で一方的だったことは、ちゃんとわびた。

 そして、もう、この問題は、終わっているのだ。
 事務的には。

 ただ、自分の感情や、相手の感情に、
まだしこりが残っているだけの話だ。

 さて、この問題をどうしよう、と思ったときに、
私は、「正々堂々と善意で対応」と思いついた。

 何も後ろ暗いことは無いのだから、
堂々と道を通行する。
 たまたま正面から出会ってしまったら、
ビビらず、睨まず、堂々と、会釈。
 喜怒哀楽皆無で、
堂々と、心の整理された冷静な大人として、
会釈。

 「まじめに一生懸命、家事育児に日々頑張っている善意の主婦ですが、何か?」
というキリッとした態度。

 悪口も言わず、悪態もつかず、
勝ちも負けもなく、
ただただ、善意に基づいて生きています、という姿勢。

 それでもやはり、
いきなり鉢合わせになったときは
「おおおっ」
と叫びそうになってしまったが、
「正々堂々善意でゴー」
と口の中でつぶやき、きちっと会釈した。
 そして、いつも通り、2歳の長女と手をつなぎ、
歌を歌いながら歩き続けた。

 さて、先日。

 いつも睨みつけてくる相手が、
なぜか、こちらから目をそらし、
気づかぬ振りをして、そそくさと道を通り抜けて行くではないか。

 アヤツのことだから、よもや反省したというわけでもなかろうが、
「相手も一生懸命生きている普通の感覚を持った人間だ」
という認識を持たれたのかもしれない。

 かくして、宿敵とも、
善意パワーのおかげで、
負の関係がクリアになった。


 善意の人になれば、
子育てにおいても、きっとすごい。
 いつも「キーッ」となるところで、
銀河鉄道999のメーテルみたいな口調で、
「それはいけないことだわ、テツロウ」
という風に、かっこよく、そして色っぽく叱れる。

 夫に対しても、この手は有効。

 「家事を手伝うのです、テツロウ」
 「帰りに牛乳を買ってくるのです、テツロウ」
 「トイレの床のおしっこ拭くのです、テツロウ」

・・・・・・と、応用無限大だ。

 (ん? 善意か、これ?)


 意地悪には意地悪で、
攻撃には攻撃で対応したくなるのは、そりゃ人情だけど、
さあ、ここは、ひとつ、ひと肌脱いで、
あなた自身が、世直し侍になってみないか?!

 あなたのそのコミュニティの中で、
今日から善意のリーダーになって、
おごらない愛の人になってみないか?!

 「無名の偉人」になろうじゃないか?!
 「在野の賢人」として、凛と生きようじゃないか?!

 全国同時多発的善意パワーで、
心豊かな世の中を根っこから作っていこうではないか?!

 おい、私! 
 まず言いだしっぺの自分もな!


    (了)

(話の駄菓子屋)2007.11.20.あかじそ作