「 午前9時までは人にあらず 」


 人それぞれ体内時計というものを持っていると思うのだが、
私の場合、若い頃から「起床時間」が午前9時と設定されているようで、
休日に目覚まし時計を仕掛けずにいると、
自然と起きるのは、決まって午前9時ジャストだった。

 午前9時になると、
気持ちよくパチッと目が覚め、
前日の疲れもストレスもキレイさっぱり片付いている。

 ところが、平日は、そうも言っていられないので、
毎朝5時過ぎに起床して、
子供の弁当を作り、朝食を作り、
子供たちを学校に送り出している。

 人並みに炊事洗濯をするのだが、
いかんせん身も心もウツロな状態でこなしている。
 体は機械的に動いてはいるが、
頭も心も起きていない。
 体だって、20%ほどしか稼動していない半休眠状態だ。

 そういう状態にありながら、3時間ほど、
一日の家事育児労働の3分の1をこなすわけだが、
はっきり言って、ずっとモウロウとしている。

 子供の学校のしたくだが、
ひとつひとつ細かい気遣いが必要で、
モウロウな頭での作業は、実につらい。

 今日プールの授業がある子を検温し、プールカードに記入、捺印。
 お腹が痛いと言う子にビオフェルミンを、
喘息気味の子には気管支拡張剤を飲ませて、
それぞれ昼の分の薬を小袋に入れて持たせる。
 子供たちに朝食を食べさせながら、
高校生の昼の弁当と夜の弁当を作り、
それぞれいたまないように冷蔵庫で冷やし、銀の腐敗防止シートを入れる。
 全員に自分の新しい箸ナプキンを用意させ、
4人分の水筒に氷と麦茶を入れる。

「ハンカチ・ティッシュ持った?」
「名札付けたか靴下履いたか」
「体操服入れたか上履き持ったか水着大丈夫か」
「弁当しまえ水筒忘れるな」
「鍵盤ハーモニカは! 習字道具は! 絵の具は!」
「今日の部活は何時まで?」
「三者面談の手紙必ず提出してよ」
「ほら時間だよもう行きな」

 その間、洗濯機は一回目の洗濯の終わりを告げてくるので、
急いでカゴに取り出し、2回目の洗濯物を洗濯槽に突っ込む。
 本日は、晴れているので、シーツ類を洗うため、3回目もある。

 モウロウとしながら小走りで家の中を駆けずり回っている中、
誰かしらが兄弟喧嘩を始め、
子供部屋から物騒な大きな音と号泣が聞こえてくる。

 「おい〜〜〜っ!」
と、走って止めに行くと、
大抵誰かがうずくまっていて、
もうひとりが号泣しながら相手につかみかかっている。

 「やめやめやめ〜〜〜い!」
割って入って喧嘩を止めるが、
「僕は悪くない」「アイツはずるい」「お母さんはひいきだ」
などと朝っぱらから怒号が飛び交い、
私の神経を逆撫でしてくる。

 「静まれ! ふたりは同じ部屋に居るな!」
と、どちらかひとりを隣の部屋に引きずりこみ、
「朝から近所迷惑なんだよ!」
と叱る。

 バタバタバタバタしているうちに、
中学生の次男が朝練に出かけ、
小学生ふたりが出かけ、
だいぶ遅れて高校生が自転車で出て行く。

 ここまでで午前7時40分。

 やれやれ。

 誰も学校を休まずに登校できれば万々歳。
 虚弱体質の子供たちの誰かしらが具合が悪くて欠席すれば、
これから下の子を連れて、かかりつけの病院に行くことになる。

 腰をおろす暇も無く洗濯2回目が終わり、
カゴに山盛りの洗濯物を抱えて2階のベランダに出る。
 工夫して干さないと、全部干しきれない。
 経験にしたがい、自分なりのルールに添った干し方で干す。
 干し終わり、洗面所に戻り、
2回目の洗濯物をカゴに入れ、3回目を回し、
そしてまた、ベランダに干しに行く。
 「今さら」だが・・・・・・多い!!!
 洗濯物、多すぎ!!!!!

 大量の服を干し終わり、やれやれと階下に降りると、
3回目の洗濯物が洗濯機の中で偏って、
がったんごっとんがったんごっとん、と大暴れしている。
 ひとつひとつ取り出し、平たく入れなおすのだが、
何度入れてもまた、がったんごっとんと暴れて止まる。

 さすがに3回目の入れ直しでは舌打ちしてしまい、
4回目ともなれば、洗濯機を蹴飛ばしてしまう。

 ここまでで午前8時過ぎ。

 まだ人心地は、ついていない。

 ふらふらしながら3回目の洗濯物を干しにベランダに行くが、
その辺で2歳の末っ子が起きてきて、
「おっぱい飲む〜」
と言いながらへばり付いてくる。

 その横で、熟睡している夫。
 相変わらず上半身長袖下半身裸で爆睡している。

 イッラ〜〜〜〜、っと来て、
布団からはみ出た足をわざと踏み、「失礼」と言ってやる。

 午前8時半。

 まだ私は、人じゃない。
 意識モウロウで、チマチマした無数の作業を繰り返す「ビースト」だ。
 眠さとだるさと意識モウロウとで、イラッッッイラしている。

 ふと気づくと、2歳児にシャツをめくられ、勝手に乳を吸われていた。
 あ〜あ、断乳できねえぞ〜!

 午前8時55分。

 世間の社会人はとっくに働き、清い汗を流しているというのに、
うちのデクノボーは、まだ祖チンを出して寝ていやがる。
 そして、この脂っこい寝顔!
 人が朝から一所懸命頑張ってるってのに、
手伝いもしないでグースカピースカ寝やがって、
く〜〜〜〜〜、許せねえなあ〜〜〜。
 それにしても、このおっさん、どんだけタレ目なんだよ。
 年々タレてきやがって、今に目が縦になっちまうぞ。

 タレ目でいい人だと思って結婚したけど、とんだ罠だったな。
 パンダは、一見タレ目に見えるが、
実は目の周り黒い部分がタレ目に見せているだけで、
案外目つきの悪い熊だ、というのに似ている。
 このおやじも、優しそうなタレ目の、
自己チューくそじじいだったわけだ。
 自己チューのくそじじいでも子孫を残せるように、
コイツの先祖の遺伝子が作戦を練り、
いい人に見えるようにルックスを構成したのだ。
 コイツら一族を「タレ目」にすることによって、
自己チューを気づかれないようにした・・・・・・

 まるで進化の過程で、首の長いキリンだけが、
木の上の葉っぱを食べられるから生き延びたように、
より目の垂れた種族だけが、
この懐疑心まみれの乱世を生き延びられたのであろう・・・・・・

 って!
 何だそりゃ!
 ふざけんなよ・・・・・・

 ク〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッ。

 「おいてめえ・・・・・・」 

 夫の顔の上に私の足の裏が激しく踏み下ろされる直前、
9時のアラームが鳴った。

 私は、突然我に返り、
ニッコリ笑って窓の外を見やった。

 「は〜、気持ちよく晴れたわね。洗濯物もよく乾くわ」

 頭の霧が晴れた。
 目も覚めた。

 9時なのだ。

 寝ぼけ顔で起きてきた夫に「おはよう」と声を掛ける。
 何も知らずに「おはよ〜」と答える夫の背中に
「命拾いしたわね」
と、つぶやく。

 ああ、午前9時までは、我、人にあらず。

 命が惜しくば、夫よ、
子供と共に家を出るのだ。
 「子孫を残そう」という野獣の本能が働いている間に、
このビースト嫁から逃げおおせるのだ。


    (了)

(話の駄菓子屋)2008.6.17.あかじそ作