「 つながる 」 |
親も言うこときかない、 子供も言うこときかない、 何でよ、どうしてなのさ! と、頭をかきむしっていて、ふと、思った。 そもそも、私自身の「言うこと」は、合っているのか? 自分は正しい、という勝手な思い込みで、 家族を無理矢理自分に従わせようとしているだけではないか? そもそも私は、自分でも嫌になるくらい「道徳」に縛られている。 こういうときは、こうしなければいけない、 ああいうときは、そのようにすべきである、 常に正しく、常にきちんと、 という、倫理のルールにのっとって生きてきた。 それは、いまどき珍しく、むしろ立派なことではないか、 とも思うが、 自分だけでなく、自分の家族にも厳しい倫理ラインを引くので、 「もっと楽に行きましょうや」 という両親や夫、子供たちから反感を買っているのも事実だ。 こちらはどう考えても正しいと思うことを、 大切な家族に諭しているつもりが、 諭されている相手にとっては、 「いちいちうるせえな、んなこたあ、わかってるよ」 という気持ちが先立ち、素直に言うとおりには動かない。 私が必要以上に家族を管理しすぎているのか、 それとも、家族の方がいい加減すぎるのか、 その両方なのか。 両方違うのか。 大体、なぜ私の母親が、 「睡眠薬と酒を一緒に飲むな」 という当然の忠告を聞こうとしないのか、 なぜ子供が、 「連日ゲーセンで3000円も使ってくるな」 という常識的な注意を聞き流すのか。 そして、「反省」どころか、「反抗」するのか。 なぜ、当たり前のことを言っているだけなのに、 言うことを聞いてくれない。 ん? んん? んんんんんんんんんんんんん? 「言うことを聞かない」? 遠い記憶の奥の奥で、 聞き覚えのある響きがよみがえってくる。 (・・・・・・言うこと聞け・・・・・・) (・・・・・・言うこと聞けねえのか・・・・・・) (・・・・・・いい加減にしろ・・・・・・) (・・・・・・もう勝手にしなさい・・・・・・・) 私は、誰かにそう言われていた気がする。 よく聞く声で、そう言われていた感じがする。 あの声は・・・・・・ そう、あの声の主は・・・・・・・ あ! 母だ! 父だ! 「まったくお前は、何でこう憎たらしいことばっかり言うかねえ!!!」 「親に向かって何言うか?!」 間違いない。 何をしても、何処へ行っても、 目の前に大きく立ちはだかる、両親がいた。 愕然とした。 私はかつて、 今の自分の子供以上に勝手なことばかりして、 親に注意されれば 「産んでくれなんて頼んでない」 とか 「あんたは母親になっちゃいけない人間なんだよ」 とか 「万年係長、生きる価値無し!」 とか、 「死ねクソジジイ、クソババア!」 とか、 猛毒を吐いていたではないか。 そして、何度私が毒を吐いても、百倍返しでやり返してきた母親が、 ある日、涙声で 「お姉ちゃんキツイなあ」 とだけ言って、黙ってしまったこともあったではないか。 今、私は、 あのときの母親の立場に立っているのだ。 子供のときは、親の気持ちなんて知ったこっちゃなかった。 勝手に気持ちいいことして勝手に産んだんだろ、 テキトーに飯だけ食わせて、威張り散らして、子供を支配して、 うるせえんだよ! お前たちに私の気持ちなんかわかるか! 大嫌いだ! 子供より自分の方がかわいいんだろ、 自己チューのバカヤロウどもが! と、思っていた。 被害妄想の中で、 「親の愛に飢えた子供」というキャラを生きてきた。 ついさっきまで。 さっきまで、 「母親が教育ママだったから、何十個も習い事をさせられていた」 と思っていたが、 習字も、絵画も、音楽教室も、 幼い私が興味を持ったものは、すぐに習わせてくれたのだった。 運動が苦手で、人見知りがひどかったのに、 無理矢理「ドッヂボールクラブ」に入れられたのを、 長く恨んでいたが、 何とか娘の弱点を克服させたいと願う親心だったのではないか。 あいにく、運動音痴は直らなかったが、 書道も絵画も音楽も、 いつも学校で賞を取り、自信につながり、 今でも好きで続けている。 人見知りについては、 直らないまでも、「人懐っこい振り」が上手には、なった。 今、私は、 あまりにも勉強しない子供たちに困り果て、 長男と次男を無理矢理塾の夏期講習に突っ込んだものの、 多額の費用に閉口し、 「大金払ってるんだから元を取れ」 なんて毎日言っている。 「塾の勉強は面白いけど、そんなにお金かかるならやめるよ」 と言う長男に、ハッとし、 「金のことは心配するな、勉強が面白くなってきたのはいいことだ」 などと言い直してみたりもする。 私の子供の頃、 父は、給料のほとんどを飲み代に費やしていた。 母は、家で子供の世話をしながら、 連日徹夜でトレースの仕事をしていた。 「金がない」 なんてセリフは、母の口から一度も聞いたことがなかったし、 習い事もたくさんさせてもらえたし、 本もノートも文房具も、不自由無く、どんどん買ってもらえた。 常に経済的危機の渦中にありながら、 子供たちは、一切そのことを知らず、案じることすらしなかった。 今思えば、それが子供にとって、 どんなに恵まれた環境であったか。 経済的な不安を持たず、 自由にあらゆることに興味を持ち、 買いたい本を買いたいだけ買える、という環境は、 今の私の人格を構成するのに不可欠だった。 私が私らしく育つために、 母の水面下の努力は尋常じゃなかったのだ。 母の苦労を察することなく育った私は、 食べたいものを食べたいだけ食べ、 買いたいものを買いたいだけ買い、 やりたいことをやり放題やっているにもかかわらず、 「自分はガラスの感受性を持つ」などと思い込み、 親や環境に反感を抱いてばかりいた。 ずいぶん、ひどいことばや態度で 両親を傷つけてきた。 こんなに勝手な親で、 平気で子供を傷つけるのだから、 子供も、親に言い返してもいいのだ、と思い込んでいた。 親は、子供に何を言われても、 傷つかないものなのだ、と、 勘違いしていた。 自分の知りうる中で一番キツイことばを選び、 それを親にぶちまけることで、 親の愛情を勝ち取れるものだと信じきっていた。 しかし、それは、あまりにも甘えすぎていた行為だった。 親は、子供に言われたことばに傷つかないどころか、 子供に言われたことばにこそ、 一番傷つくのだ。 そのことは、自分が親になり、 子供に同じことをされて初めてわかった。 生まれたてのふにゃふにゃの頃から、 抱き上げて、抱きしめて、 乳をやり、物を食べさせ、 噛んで含めるように物を教え、 学校の道具を買い揃え、 算数セットの細かい一つ一つに夜なべで名前を書き込み、 いじめられたと言えば、オロオロし、 いじめたといえば、頭を下げ、 自分のことなどほったらかしで全身全霊で育ててきた子供たち。 その子に「死ね」と言われることの衝撃は、いかばかりか。 私の子供は、決して私に「死ね」などとは言わないが、 私は、私の親に言った。 何度も何度も、毎日毎日言った。 (同じだけ親からも言われたが) そのことを、今までずっと、 勝手な親から身を守る「自己防衛」だと思っていたのだから、 おめでたいにもほどがある。 「自己チューの、暴力的な両親の元で、 けなげに生きるガラスの感受性の少女」 というひとつの線と、 「自分の正義を、家族に強制しようとする一本気な母親」 という線が、 今、小さく 「つ」 という音をたて、つながった。 そのとたん、 私の人生の舞台装置は、 ドリフの全員集合の転換シーンのように、 ぐるりと回って一転した。 ことばだけが武器だった反抗期の少女。 彼女に対峙するのは、 倫理のルールを振りかざす母親。 それは、私対私、の決闘シーンだ。 茶の間という荒野。 足元に風で転がるレジ袋。 体操服で竹尺を構える少女と、 割烹着でこぶしを振り上げる母親。 少女は、わかって欲しいだけ、愛して欲しいだけだった。 母親は、まともに育って欲しい、それだけだった。 それだけの目的で、 彼女たちは、命がけで対峙している。 そこには、愛しかなかった。 愛に始まり、愛に終わる、 暑苦しい愛と愛とのこねくりまわしであった。 ああ、これでつながった。 長い間、私を苦しめてきた、ばらばらの線が、 一本の長い糸となって、つながった。 そうかな、そうなんじゃねえかな、 と、うすうす気づいちゃいたが、 やっぱ、そうだったというわけか。 今まで書けなかった「少年小説」の中の「親の表情」や、 「子育て作文」での「思春期の息子の気持ち」が、 これでやっと書ける。 これで、やっと、両面から書けるようになった。 つながった。 ん? と、いうことは、 今、「どうなんでしょう」と首を傾げてしまうようなタイア生活を送る 「困ったチャン」状態の両親についても、 この線はつながり、 やがて、私も「困ったばあさん」になっていくということなのだろうか。 【追記】 母は、幼少期、 あまりにもすさまじい反抗期だったため、 その母親、つまり私のばあちゃんに、 階段の一番上から突き落とされそうになったことがあるとか。 「今思えば、我ながらひねりつぶしたくなるほど憎たらしい子供だったわ」 と、くわえタバコで、ひゃっひゃっひゃっ、と笑う母。 嗚呼、因果応報。 熱すぎる愛の輪廻転生。 (了) |
(子だくさん)2008.7.29.あかじそ作 |