『水曜日の注射』 テーマ★病院 私には、4つ年下の弟がいる。 1歳過ぎからひどい喘息で、いつも青い顔をしてヒュウヒュウと息をしていた。 秋になると、毎晩発作を起こして、窓辺にうずくまり、 激しく揺れながら、喉から笛のような音をたてて、苦しんでいた。 「おね……、お姉ちゃん……く、苦しい……、死んじゃう……、助けて……」 今でさえ、アレルギーは、随分認知されてきてはいるが、 25年ほど前は、医者でさえ、アレルギーに対する理解度は低かった。 母は、かかりつけの医者に、 「喘息は、一種の心身症で、甘やかすから発作が出るのです」 と、言われたため、弟がどんなにひどい発作を起こしても、 わざと知らん顔を決め込んでいた。 同じ部屋に寝ていた私は、目の前で呼吸困難を起こし、 暗い部屋でひとり、あえいでいる幼稚園児を、「甘ったれ」とは、どうしても思えなかった。 布団からむくむくと出て行き、ねぼけまなこで黙って弟の背中をさすっては、 ふたりで寄りかかりあって朝を迎えた。 10歳前後だった私は、眠たい盛りで、弟がひどい発作を起こして、 必死に助けを求めていても、まったく気がつかずに、それどころか、 「うるさいっ!」 などと、無意識に弟に怒鳴ったりしたこともあったらしい。 弟は、何度も入院し、何度も、救急病院に運ばれた。 1週間に1度、体質改善の薬を注射することになった。 初回は、母が弟を病院に連れて行ったのだが、母は、大の病院嫌いで、 2週目からは、付き添いは、姉である私の仕事になった。 毎週水曜日、学校から帰ると、 大きな総合病院にふたりでびくびくしながら入って行き、 長い時間待たされて、ものすごく痛い注射をして、 またものすごく待たされてから、 会計を済ませ、家に着く頃には、外は真っ暗だった。 10歳と6歳の通院は、本当に心細く、注射の後、合皮の長イスにふたり並んで座り、 消毒綿の上から、弟の細い腕を揉んでいる時間が一番嫌だった。 弟は、注射が痛くても、絶対に泣かないし、 毎週の注射にも、文句ひとつ言わなかった。 黙って毎週、下唇を噛み締めて注射されていた。 チビでヤセッポチで、負けず嫌いの弟は、 やはり文句を言わずに毎週病院に付き合っている姉に、気を使っているようだった。 「注射、いつまでやるの?」 「治るまでだって」 「いつ治るの?」 「大きくなったらだよ」 「どれくらい大きくなったら?」 「そうだなあ……、5年生くらいかもね」 「早く5年生になりたいなあ」 「お姉ちゃんはね、ついこの間幼稚園だったけど、もう来年5年生だから。 だから、お前もすぐだよ」 「すぐだといいなあ」 「すぐだよ。さあ、よく揉んでおこう」 本当に、弟は、すぐに5年生になった。 そして、すぐに中学生になり、高校生になり、家を出て行った。 喘息は、ちっとも良くならないままで。 弟は、来月、父親になる。 私は、弟が発作で苦しんでいる時、もっと助けてあげればよかった、 と、今でも思う。 今、自分の子供達が喘息で、夜中に何度も発作に見舞われるのだが、 そのたび、弟がひとりで苦しんでいたのを思い出してしまう。 今、弟の喘息は、随分と良くなっているというが、 私は、今でも、あの病院の長イスの感触は忘れない。 泣きそうなくらい、心細かったこと、 ふたりとも、めいっぱい無理して平気なふりをしていたこと、 「弟の息は、楽になるのか、本当に治るのか」 そのことを、親も医者も、誰も知らない、ということの不確定さ、 夜中に発作を起こすと、舌打ちをする父親、 「甘ったれ病!」とわざと叱る母親、 水曜日の注射の後、母から特別にもらうお小遣いで、 真っ暗な中でガチャガチャをする、小さな弟の後姿、 家に帰ると、大好物のカレーライスができていたこと、 みんなみんな、忘れられない。 子供時代の憂鬱と、甘酸っぱいノスタルジーが混ざり合って、 秋風が吹く頃、毎年、発作のように思い出すのだ。 (おわり) |
2001.10.13 作:あかじそ |