しその草いきれ 「お葬式」
 

 夫の父方の祖母が亡くなった。
 101歳と3日目のことだった。
 
 石川県金沢市で、夫の両親と住んでいたのだが、
ここ数年、
義母は、脳出血による後遺症で右半身が不自由になり、
義父は、ガン闘病中ということで、
年寄りの世話ができなくなってしまい、
お年寄りの施設で暮らしていた。
 
 100歳を過ぎても、
私の作ったチキンカレーを「うまいうまい」と平らげてしまったくらい健康で、
旅行や寄り合いにも元気に参加していたが、
さすがに施設に入ってからは、ぼんやりしてしまい、
最後は、胃壁からの出血で亡くなってしまった。
 
 戦争で夫を亡くしてから、
女手ひとつで豆腐の行商をして7人の子供たちを育てていたが、
凍てつく富山の冬の夜に、
子供たち7人を家に置いて、
ひとりで【活動写真】を見に行ってしまうような自由なところもあったという。
 
 夫の妹からの電話で、
おばあちゃんの亡くなったことを聞き、
通夜や告別式に出席すべく、
急いで仕事の調節をしたのだが、
夫の方は、どうしても通夜の日は休めなかった。
 息子たちは、ちょうど中間テストの真っ最中だったり、
喘息の発作が出ていたりして、
全員での帰省は難しそうだ。
 そこで、息子たち4人を実家に頼んで、
夫と私と、末っ子の2歳の娘とだけで帰省することにした。
 
 告別式当日、
始発電車に乗って大宮駅まで行き、
新幹線と特急を乗り継いで金沢に着いたのは、
午前11時前だった。
 
 タクシーで葬儀場まで行き、
ロビーでお茶を飲んでいた親戚たちに
「遅くなりまして」
と頭を下げて回った。
 
 「今ちょうど写真撮り終わったところや」
 
 残念そうに夫の父が会場から出てきた。
 
 そうなのだ。
 
 私は、夫の親戚の葬儀で、いつも驚くのだが、
金沢でのお葬式では、
祭壇の前で、親戚一同が結婚式のそれのように、
きれいに並んで記念写真を撮るのだった。
 
 北陸地方では当たり前なのか、
夫の親戚は、みな、
当たり前のように撮影にあたっていたが、
東京出身の私は、最初、あんぐりしてしまった。
 
 結婚式でのしきたりでもそうだったが、
ともかく、冠婚葬祭に関して、
その地方ごとの慣習の違いは、特にはなはだしく、
心から「おっもしろ!」と思ってしまう。
 
 お葬式が始まってからも、
お焼香の順番やら、流儀やら、
まるで関東とは違い、
焼き場から帰ってからも
「中陰法要」というのがあって、
「やっと終わった」と思ったのに、また、お経があげられた。
 
 北陸では、一向一揆やらなんやらがあったくらいで、
浄土真宗の信仰が厚く、
とにかく、スペシャルな儀式がいろいろあって、
なかなかに面白いのだった。
 
 おまけに、お清めとして食べた精進料理が、
これまた、ものすごく旨く、
金沢の美味しい生麩や、だしの効いた創作豆腐料理などが、
これでもかこれでもか、と出てきた。
 
 「旨い! うんま〜〜〜い!」
と、テーブルをバンバン叩いて叫びそうになるのを、ぐっとこらえ、
「美味しいですね」
と、隣に座る父方のおじさまに微笑んでおいた。
 
 日帰り帰省で、帰りの列車の時間が迫り、
そこで一足早く引き上げさせていただいたのだが、
親戚一同、立ち上げって気持ち良く送り出してくださった。 
 
 出口で、式場の係のおばさんが、
祭壇の花を綺麗に花束にしてくれたものを配っていた。
 さらに、祭壇に並べてあったお菓子やフルーツを
参列者に均等に分け、紙袋に入れたものを手渡された。
 
 これも、金沢で初めて出会った風習のひとつだ。
 市販のおせんべいやスナック菓子やチョコレートなど、
まるで親戚の集まりで出すような普通の菓子が、
祭壇に捧げられ、その後、皆でお持ち帰るのだった。
 
 
 帰りの特急の中で、はじめて北陸の夜の車窓を見た。
 いつも子供連れで、昼間の移動だったため、
こんな真っ暗でしんと静まった日本海を見たことはなかった。
 
 疲れて眠ってしまった2歳の娘を横抱きにして、
出張のサラリーマンだらけの列車の中、
暗い車窓をずっと眺めていた。
 暗い夜の窓は、まるで鏡のように車内の灯りを反射し、
まるで明るい鏡張りの部屋の中にいるようだった。
 
 私の前にある鏡の中には、幼な子を抱いた女の顔が、
疲れてはいるが、晴れ晴れとした表情で、
その真っ暗な北陸の地を背景に映っていた。
 
 
 子供たちが、七五三のたびにお祝いを送ってくれたおばあちゃん。
 およそ20年前に、初めて会ったときから、最後に会った今年の夏まで、
金沢に行けば、必ず、ひざをつき合わしてお話しした。
 
 おばあちゃんは、強い北陸なまりで、
私は、東京の早口な下町ことばだったから、
お互い半分も理解できない状態だったが、
いつも和やかに会話して、やさしいことばを掛け合っていたっけ。
 
 おばあちゃんとのお別れで、
お棺にお花を入れるとき、
「長年おばあちゃんに嫁いびりされた」
と、あんなに愚痴っていた義母が、一番泣いていた。
 
 父方の親戚同士は、あまり仲が良くないと聞いていたが、
ひとりひとり話せば、みんないい人で、
いつも家族写真入りの年賀状を送っていたせいか、
「子供たちみんな元気?」
「やっと女の子が生まれてよかったね」
などと、優しく声を掛けてもらった。
 みんな口下手で不器用なだけで、
本当は、冷たい人たちではないのだ、と思った。
 
 おばあちゃんが骨になって出てきたとき、
小さなテラコッタの骨壷が真ん中に置かれてあった。
 
 あんなに小さな壷に、全部入るのかしら、
と心配したが、案の定、全部入らず、
腿から下の部分は、入れずに、壷のふたを閉めてしまった。
 
 (足の骨は入れないのかしら?)
 (下半身はお墓に入れないの?)
 
 心配していたのは私くらいで、
お骨を骨壷に入れる儀式を終えると、
みんな、促されるまま、黙々と部屋を出て行った。
 
 (足の骨・・・・・・捨てちゃうの〜?)
 
 私は、まだ、そこにこだわっている。
 
 焼く前、焼く作業、焼いた後の仕切り、
お骨の処理など、
70歳過ぎと思われる、ベテランのおじいさんが、
おごそかかつ、淡々と進めていた。
 
 彼は、【職人】そのものであった。
 プロの【おくりびと】であった。
 (足の骨は〜! お〜い!)という私の疑問も、
彼の静かなる仕切りにおいて、
静かに静かに、どこかへ消えてしまった。
 
 「百歳過ぎまで生きて、大往生や」
と言いながらも、
みんなちょっとだけ泣いてたなあ。 
 
 
 車窓の鏡に、
外の灯りが増えてきた。
 そろそろ乗り換えの駅に近づいてきたのだろう。
 
 
 おばあちゃん、さようなら。
 そして、101歳、おめでとう。
 早速、若い頃の美人な姿に変身して、
戦争で若くして亡くなったおじいちゃんの元に駆け寄って行ってね。
 
 すてきな、
やさしい、
いいお葬式でしたよ。
 
 
 
          (了)
 
 
 
       (しその草いきれ)2008.11.4.あかじそ作