『百体観音』


あるところに、とっても純粋で、一途な女の子がいました。
女の子は、大人になり、家庭を持ち、子をもうけました。
 毎日、少しの不安と少しの幸せとを感じながら、
少しづつ、生きていました。
 ところがある日、突然、女の子は、自分の胸の奥に、
ぽっかりと穴が開いているのに気づいてしまったのです。

 経済的にも、家族にも、友人にも、人並みに恵まれている。
幸せなほうだと思う。
 でも、何故か、どうしようもなく拭えない憂鬱が、
自分の真中に居座っているのに、気がついてしまったのです。
 自分で自分を、どう説得してみても、
その憂鬱や不安や、切なさは拭えませんでした。

 そんな心の晴れない毎日を送っていたある日、
彼女は、家族と休日を、自然の中で過ごそうと、車を出しました。
 山道は、「こんなに奥まで?」と、不安になるほど、どこまでも続き、
それでも、何かにひきつけられるように、迷わず車を走らせていくと、
ハッとするような場所へ、行き着いたのでした。
 
 ごろごろした石の塊―――よく見ると、苔むした小さな観音様が、
いくつもいくつも、いくつもいくつも、並んでいるではありませんか。

 彼女は、車を降りて、観音様の前に立ちました。
彼女の夫も、彼女の子供達も、ほろほろと車から降りてきました。
 観音様ひとりひとりが、彼女の家族を静かに迎え、
そして、何も言わずに佇んでいました。
 
 彼女には、その澄んだ気が見えました。
都会では、決して絶える事のない、聞こえぬ音
―――電波や音波や、人々のイライラした脳波―――
が、
まったく感じられず、そこには、ただ、草や葉や、空気の発する波長のみが
心地よく静かに行き交っているだけでした。
 その中に入って、彼女は、余計な雑音のない気の中で、
観音の声をかすかに聞きました。
 
 その声は、心の真ん中に直接、音もなく響き、
彼女は、それを確かに聞き取ったのです。

 彼女の家族は、まるでそこに昔から生えていた木のように、葉のように、
花のように、自然の一部となって、静かに観音様に手を合わせました。
 
 彼女は、いつの間にか、自分の心の中の大きな穴ぼこが、
自分の心の力で、ゆっくりとふさがっていくような心地よさを感じました。
 なにもご大層なことではなく、本来の自然の中に戻ったことで、
自分も、家族も、人工物によって、知らず知らずのうちに心に負った傷を、
当たり前のように治せていたのです。

 自分の命の、ちっぽけさと、宇宙に続く偉大さが、
同時に当たり前のように、そこにあることを、その観音様が教えてくれました。

 彼女は、家に帰ってからも、考えつづけていました。
新しい不安や憂鬱も、小さく、塵のようにまた積もってくるけれど、
あそこに帰れば、必ず新しくなれること。
 丸裸でアスファルトの上にうずくまっているような悲しみを、
大きなものに内包されていることを、実感できなくなっている切なさを、
あそこは、一瞬で吹き飛ばしてしまうことを。

 彼女は、いくつになっても、女の子です。
観音様は、彼女や、彼女の親や、その親が生まれるずっと前から、
女の子を知っていました。見ていました。
 
 女の子は、都会の空の下で、
「○○さんの奥さん」「○○ちゃんのお母さん」と、ひとに呼ばれながら、
いつまでも、純粋で、一途な女の子のままで、生きていくことにしました。
 ただ、誰かが自分を見ていてくれていることがわかっただけで、
強く生きられることに気がついたからです。


           (おわり)
2001.10.25 作:あかじそ