子だくさん 「出口が見えてきた」
 
 
 永遠に続くかと思われる真っ暗なトンネルの中を、
転びながら手探りで日々歩き続けた。
 
 そこへ、一点の光が射してきて、
自分の周りに、
大きな荷を負い、おさなごと手をつなぎ、
必死に歩く母親たちがたくさんいるのが見えた。
 
 やがて、自分も彼女ら同様、
両手に子供たちを連れ、
大きな荷車を引いているのが見えた。
 
 自分が今、どういう状態で、
誰と共に、
何をやっているのかが見えて、
自分と同じ状況の人たちが大勢いて、
みな光の射す方向に向かい、
汗かきべそかき歩いているのが見えたら、
私は、とたんに気が楽になり、
子育てに身を入れて励むことができた。
 
 そして、
毎日必死に子供を抱えて暮らしているうちに、
気が付くと、子供たちは大きく成長しており、
母親の元を次々と巣立とうとしている。
 
 一点の子育ての出口が見えてきたら、
そこからは、もう、
風船に小さな穴があき、
そこから一気に割れてしまうように、
爆発的に瞬時に、
子供たちは親の元を離れていく。
 
 そして、目の前を覆っていた、
子育てという大きなかたまりが消えてなくなると、
そこには、広い広い草っぱらが広がり、
来し方行く方が見渡せるようになる。
 
 自分を産み、育てた、
若き両親の青春や、
老いて亡くなり、いなくなってしまった、じいちゃんばあちゃん、
そして、そこへ日々向かっていく両親、
その後を追って歩く自分と夫。
 
 子育てというやつは、
若い親の背中を蹴飛ばし蹴飛ばし、
嫌がオウにも大人にしてゆき、
あっという間に、はじけて散って、
いつの間にかに大人になった中年男女を残して消えてゆく。
 
 子育ての出口が見えてきたら、
あまり認めたくはないけれど、
人生の出口も見えてきたように感じるのは、
なぜだろう。
 
 子供の頃は、
親や学校に育ててもらい、
自分で勝手に育ったみたいな気分で家を出て、
子を持ち、子を育て、
その子供らも、自分で育ったような気で出てゆく。
 そうして、急にガランと空いた巣の中で、
ふと考える。
 
 子を育てるのが親の役割だとしたら、
自分は、親に育てられて大きくなり、
そのまた子を育て終わったら、
次は、
どういたしましょうや?
 
 ただ衣食住を整えて、
体だけを育てりゃいいというわけでもあるまいし、
果ては、自分がどんな大人に育てば、
この命の連鎖をきれいにつなげるのか、というところに気が及ぶ。
 
 もう、肩の荷を降ろし、
自分の人生をマイペースで楽しみなさい、
と、人は言うけれど、
その時がきたら、私は、
また一から何かを組み立て直さないと歩けないかもしれない。
 
 生から死までを見通せるようになったら、
きっと、
ここからが本番なのだと思う。
 
 老いて衰えていくばかりの肉体に、
気が萎えてしまわぬように、
最後の最後まで、
成長を続けるヒトであるために、
ひたむきさを維持していきたい。
 
 また永遠の暗いトンネルの中で、
ひとりぼっちで這いずっているような錯覚を覚えて、
苦悩の末に死んでいくのではなく、
一点の光から、周りを、自分を、
世の中全体を照らし出して、
暮らしの中に溶け込んで、
さりげなく、朗らかに老いて、
明るくこの世をおいとましたいと思う。
 
 「自分自分」をやめ、
「楽に流れること」やめ、
どんなに老いても病んでも、
自分のなすべき役割を見つけ、
ひたむきに暮らしていきたい。
 
 これ、
人生の折り返し地点においての、
一考察。
 
 
 
       (了)
 
 
 (子だくさん)2009.1.13.あかじそ作