「 2009年2月 」

 長男が連日アルバイトで帰りが午後10時半すぎになった。
 アルバイト開始当初は、一分一秒をはらはらして待ちわびていたのに、
今では、彼が夫よりも帰りが遅いことにも慣れてしまった。

 「疲れた〜!」
 「お腹減った〜!」

と、玄関になだれ込むように帰ってきていたのが、
今では、
「夕飯食べてきたから」
「帰りにカップ麺買ってきたからご飯いらない」
と言うようになり、
下手すると、居間に一度も顔を出さずに、
直接部屋に入って、いつのまにか、とっとと寝てしまっている。

 ああ、
「我が家は18歳成人制だよ!」
と、子供たちが幼いころから豪語していたが、
いざ16歳の息子が想像以上の勢いで巣立っていこうとしているのを目の当たりにすると、

あっけにとられるばかりだ。

 目にもとまらず勢いで
先へ先へと駆け出していってしまい、
もう、彼の後姿を目で追うことすら難しい。

 これまで、イヤと言うほど子供に関わりあってきて、
子供の方もそれで満ち足りたからこそ、
こうしてスムーズに親から卒業していくのだろうが、
それにしても、早い。


 巣立ち行く長男の足跡を呆然と眺めているうちに、
スルッと私の横をすり抜けてゆく影がある。

 次男だ。

 次男は、中2だが、
長男の中2の頃と比べると、
兄でいろいろな道筋がだいたい出来ていたせいか
成長が早い気がする。

 もちろん、まだまだ甘ったれもいいところだが、
友達同士で泊りがけの旅行に行ったり(夜行列車に泊まるのだが)、
映画にも、遠いところへの買い物も、どんどん自由に出かけるし、
ひとりでいくらでも好きなところへ行ってしまう。

 兄を見ているせいか、
自分も早く高校生になってバイトを始め、
資金を貯めて、
もっとどんどん出かけたいと行っている。


 さて、そんなこんなで、
私の胸元に残されているのは、
もうすぐ中学生の三男と、小3の四男、3歳の長女だけだ。

 いつもいつも喧嘩しながらも、
今のところ、みっちりつるんでいる三男と四男だが、
さすがに三男が中学に入ったら、部活にがっつりと時間をとられてしまい、
四男は、たったひとりの小学生になり、
その状態は、あと3年続く。

 小学生の子供がたったひとりきりなんて、
我が家にしたら、
そんなこと、初めてなので、
何だか、物足りないやら心細いやら、だ。

 更に、来年度、
幼稚園の2年保育に入ろうとしている長女だが、
いよいよ最後の子供が就園してしまったら、
私は、確実にしばらくの間、「空の巣症候群」になるにきまっている。

 それほど、今まで17年間もの間、
子供という存在が、私の身にも心にも、
ものすごく重圧をかけていたのだ。

 少しづつとはいえ、
重荷を下ろしていっていることは、
楽になっていっているということなのだろうが、
凄まじく淋しがり屋の私にとって、
常に自分に擦り寄ってくる存在が減少していくことが、
(めでたいことなのだとわかっちゃいるが)
恐ろしいような気がしてならない。

 結構ハードだけれど、自分に向いている仕事も始めたし、
それもやっと軌道に乗ってきたのだから、
それでいいじゃないの、と自分にいいきかせてみるが、
「メランコリックかーちゃん」になってしまうことも、ままある。


 そんな2月のある日、
3歳の長女が、急に39度台の熱を出した。
 そういえば、2、3日前から、ひどく鼻水を垂らしていた。

 かかりつけの医院に行くと、
そこで看護師をしているママ友がいて、
「お、あかじそ氏、また来たな!」
とニヤニヤして迎えてくれた。

 「インフルエンザの検査、やってみるかい?」
と言われ、
「おう、やっとくれ」
と言うと、
彼女は、
「はい、ゆりっぺごめんよ〜」
と言いつつ、
長い綿棒で娘の鼻の穴をクチュクチュっとやり、
数分後、またニヤニヤしながら現れ、
「はい、おめでとうございま〜す」
と、一枚の紙を私に渡してきた。  

 その紙には、
「インフルエンザで気をつけること」
というタイトルと、たくさんの注意書きが載っていた。

 「まじか?!」
 私が、顔面をその紙に摺り寄せて見ていると、
「まじだ!」
と、彼女は言い、
にこやかに私たちを奥の隔離待合室に通してくれた。

 彼女の息子二人は、
うちの次男三男と同じクラスで、みんな仲がいい。
 彼女のダンナさんも、息子たちも、
毎年のようにインフルエンザにかかっているので、
「やんなっちゃうわよ〜」
と、しょっちゅうぼやいていたが、
今度は、うちの番だ。

 「さてと、何人にうつるんだ〜? 一家7人全滅か?」
と、彼女が言うので、
「この子ひとりで阻止してみせるわよ」
と胸を張って言って見せたが、
虚弱体質のわが子たち、
みんな予防接種をしたものの、
誰もうつらないってわけにはいかないよなあ、と、
心の中では、大きなため息をついていた。

 すると、
「ママ倒れないでよ」
と、急に彼女は、優しく私の肩を抱き、
「お大事に!」
と、背中を思い切り「バ〜ン!」と叩いてきた。

 「あいよ! どうもね!」
 私は、彼女に親指を立てて見せたが、
いやはや、やっかいなことになった。

 去年は、長男の高校受験の直前に四男がインフルエンザにかかり、
タミフルのせいなのか、高熱のせいか、
激しく暴れて泣き叫び、異常行動が物凄かったのだが、
今年も、そんな風に大騒ぎになるのだろうか?

 顔面寄せ合って添い寝している私が、いの一番にうつりそうだし、
現に何だかここのところ、体が非常にだるい。

 翌晩、夜中にひどい頭痛に襲われ、
ほぼ同時に悪寒とだるさがやってきて、
「完全にやられた」
と、思ったが、
それと時を同じくして、夫にも私と同様の症状が現れていた。

 その翌朝、
「今日は、配達の仕事なんて無理だろうか」
と起き上がってみると、
なぜか、体が軽く、何だか、むしろいつもより体調がよかった。

 それに対して、
夫の様子が何だかおかしい。

 予防接種を受けたせいか、熱こそは出ないが、
症状が重くなっているようだ、と言う。

 そこで、翌日、また、
かかりつけの医院に行ってみたら、
「(大家族のあかじそ家の)お父さん、はい」
と、ひとりの看護師から
「インフルエンザで気をつけること」
と書かれた紙を受け取った。


 それから1週間経ったが、
私も、子供たちも、みな無事だった。

 口腔内細菌がウイルスの進入を助けている、とテレビでやっていたので、
家族じゅうで歯磨きを厳行していたのが功を奏したようだが、
あいにく、最近「部分入れ歯デビュー」をした夫は、アウトであった。


 子供に粉の薬を溶かしたものを、
だましだまし飲ませるのも、あと何年だろうか。
 上の子供たちは、みな、言われなくとも
処方された薬を自分で三度三度ちゃんと飲むようになった。

 ああ、2009年2月某日。

 残された育児の蜜月を、なめるように味わうことにした。
 あんなに私を苦しめた育児地獄の日々は、
実は、女の人生の最盛期だったのだ。

 最盛期よ、もう少し、もう少しだけ続け。



(子だくさん)2009.2.10.あかじそ作