「 気にしい 」

 幼いころ、父や母に、
「ほんとにこの子は図太いわ」
「にぶい!」
「感じないヤツだなあ!」
と、からかわれていたが、
実は、いろいろ細かく感じては、いた。

 当時は、感受性の発露の方法を知らなかっただけで、
実は、細かいところや、
人の顔色からうかがえる心の機微まで、
よく感じていた。

 何かで傷ついたりしても、
「わたくし、今、このことにおいて傷つきました」
と、きっちり表明する方法もタイミングも知らず、
毎日無意識のうちに、
ちょっとづつちょっとづつストレスを鬱積させ、
何かの拍子に、狂ったように号泣する子供だった。

 思春期に入って、
人並に泣いたり怒ったりするすべを知り、
少しは「私は図太くない」ということを
周りの人たちに知らせることができたが、
同時に、自分が自分の感受性の鋭さに気づいてしまうことになり、
ここからが神経をすり減らす生き方の始まりだったとも言える。

 揺れる乙女心の季節を過ぎても、
なぜか心は揺れっぱなしで落ち着くそぶりさえ見せない。

 これはどうやら、
思春期の一時的な感受性の不安定さではなく、
私の場合、はっきり言って、
極度の「気にしい」という性分だったらしい。

 そういえば、父も母も、
一見大胆不敵な人なので、表立ってそうは見えないけれど、
実は、相当の「気にしい」で、
ちょっとのことで大騒ぎしては、
怒ったりわめいたり、右往左往している。

 その血を見事に受け継いでしまったらしく、
私も、重症の「気にしい」だということは、
もはや、自他共に認めるところになった。

 自分の生活を見通してみて、
それが、見渡す限り真っ白で、
一点の曇りもなく透きとおっていないと、
気になって仕方無いのだ。

 「あの人が自分のことをよく思っていないかも」
とか、
「自分の言動が他に迷惑を掛けているかも」
とかいう、「もしかして」から始まり、

「あんなこと言われた」 
とか、
「こんなことされた」
とかいう、被害報告が加わり、さらに、

「こうかもしれない」 
「これからこうなるかもしれない」
と、未来をどんどん悪い方向へ想像し、
勝手に落ち込んで、
どうしよう、いやだいやだ、
と、うろたえまくっている。

 この「気にしている状態」というのが非常につらく、
早くこの耐えられない心の状況から脱したいと願っているのに、
どんどん気になる事柄に執着してしまい、
いつまで経っても、ぐじぐじぐじぐじ悩んでしまう。

 まあ、わかりやすく体のことで言えば、
初めはただの湿疹だったところを、
気になるあまり、常にいじくり倒し、かきむしり、
そして結局、傷ができ、
そこをまた気にして、いじくりまくるから、
手のバイ菌が入ってしまい、
傷口がひどく膿んでしまう、
というようなことだ。

 気にしなきゃなんてことない出来事を、
ひどく気にすることによって、
それを自ら本当の病気に育ててしまう、というわけだ。

 私は、過去に、
過剰な疲れとストレスから、
「気にしい」が止まらなくなってしまい、
うつ状態になってしまったことがあるが、
この、過去の苦しい経験から、
気にし初めの数分間で
その気分を土俵の外へうっちゃる方法を考えた。

 そのひとつとして挙げられるのは、
まず、「周波数を合わせない」という方法だ。

 人に何か嫌なことを言われて、
ひどく傷ついたとする。
 今までだったら、
「その通りだ! 自分はダメなヤツなんだ!」
と、自分を責めたり、
「あんなひどいことを言うヤツ嫌い! 怖い!」
と、相手を、必要以上に恐れたりしていた。

 しかし、その考え方では、
あの悪夢のような「気にしいトルネード」に巻き込まれて、
長い間、そこから抜け出られなくなる。

 そうじゃないのだ。

 嫌なことを言う人の嫌なところと、
自分のダークサイドの一部が共鳴したから、
「傷つく」という心の反応が起きたのだ、と考える。

 つまり、相手と自分の心の中に、
互いに共通し、共鳴しあう「何か」があったから、
たまたま「傷つく」という形で心が響いたのであって、
その「何か」を捨て、
相手に共鳴しなければいい。

 たとえば、
「バカ」
と、言われて傷ついたとしたら、
相手にも自分にも「バカを軽蔑する」という共通認識が存在するから、
傷つくわけだ。

 ところが、相手に「バカを軽蔑する」という認識があり、
なおかつ「おまえはバカだ」と言われても、
こちら側に「バカは愛すべき天然素材である」という認識があれば、
それは、同じことばでもほめ言葉に受け取れる。

 反対に、相手が「かわいいヤツよのう」という意味で
「バカだなあ」
と言ってきても、
こちら側が「バカを軽蔑する」という認識しか持っていなければ、
せっかくのおほめの言葉が、ただの中傷にしか聞こえないのだ。

 つまり、相手がどんな認識で、
どんな悪意を込めた言葉を放ってきたとしても、
自分の認識の仕方、つまり、気の持ちよう次第で、
すべて清く正しく美しいことばに変換できてしまう、ということだ。

 清く正しく美しいことばに変換されるためには、
自分の認識を清く正しく美しく保つ必要がある。

 誰かに嫌なことを言われた、とか、
嫌なことをされた、とか言って、
他に対して少しでも悪意を持てば、
自分の中のいろいろな認識が「悪意」という認識で徐々に染められていってしまい、
今度は、悪意のない言葉を掛けられた時に、
それを悪意として受け取ってしまうだろう。

 反対に、自分の頭の中を、
常に、
清く正しく美しい認識で満たしておけば、
どんな悪意にも動じない、響かない心になる。

 これが、
「悪意に周波数を合わせない」
という方法だ。

 たとえば、この他にも、
自分の仕事のミスに落ち込んでも、
確固たる「清く正しく美しく」という認識を持っていれば、
「もう起きてしまったことは、元には戻らない」
「次は、同じミスをしないように気をつけよう」
「そのためには、こういうことに注意して行動しよう」 
という、冷静で建設的な対処ができる。

 もう、今までのように、
エンドレスでグジグジグジグジ情緒主導で泥沼に陥ることもなくなる。


 実は、今日も、ちょっとした気になることがあり、
それを思い煩う自分をもてあましていた。
 「周波数を合わせないぞ!」
 「清く正しく美しくでしょうが!」 
 と、自分自身に何度も言い聞かせ、
やっと先ほど「気にしいトルネード」から抜け出せたところだ。

 つまりこれは、
いまだに、私の中の
「清く正しく美しく」の認識が確立されていない証拠だ。

 まだまだ未熟で、
よごれっちまった認識にまみれて生きている。


 「気にしい」の人は、周りから見たら、
かなりめんどくさい存在だと思うが、
認識ひとつで、逆に、
「悟りの仙人」になれる可能性が高い人間だとも言える。

 いずれ「さばけた苦労人」という称号も、もらえるだろう。

 ああ、そういう意味では、
「気にしい」に生まれてよかった〜〜〜!
 (はい、強がりです)



    (了)

(しその草いきれ)2009.6.23.あかじそ作