「 二胡を弾くじいさん 」



 家の近くにあるショッピングモールで、3日分の食料を買い込み、
両手に3つ4つの大きなレジ袋を提げて
テラスを通りかかったときのことだった。
 
 どこからともなく弱々しい弦楽器の音が聞こえてきた。

 見回すと、木陰のベンチに腰かけて、
小さな胡弓のようなものを弾くじいさんがいた。
 よく見ると、それは、胡弓ではなく、
ひとまわり小さい中国の楽器・二胡で、
70歳代とおぼしきじいさんが、近くにベビーカーをとめ、
1歳半から2歳くらいの男の子を横に座らせていた。

 二胡の音色は、弱々しい割には、
遠くまでしっかり響き渡る、不思議なもので、
通り過ぎて、だいぶ経った後も、
しばらく聞こえていた。

 振り返って見てみると、
幼い男の子は、バタバタと走り回るでもなく、
じいさんを中心とした周囲1メートル以内に留まり、
しゃがんでじっとしていた。

 まるで、じいさんの弾く二胡の音色が、
見えないゆりかごになって男の子を包み込んでいるように、
男の子は、穏やかな表情で静かに遊んでいる。

 二胡と、じいさんと、ベビーカーと幼児。

 不思議な世界に、しばし、うっとりしてしまった。 

 おそらく、共働きで忙しい娘夫婦の子供を預かっている、
といったところなのだろうが、
実に、悠々としていて、
その二胡の音色を中心に、空気が止まっているようなのだ。

 せわしく歩きまわる人々の中にあって、
じいさんと男の子の周りだけは、
まるで違う時空であるような、
そこだけ三国志の中から抜け出てきたような空気だった。

 私が2歳くらいの息子を育てていた頃は、
所構わず駆けずり回り、ひっくり返って泣き叫ぶ息子に、
「ほらほら忙しいんだからわがまま言うなっつーの! うるさ〜い!」
などと大声で怒鳴ってばかりいたというのに、
同じ状況でありながら、このじいさんときたら、
「悠久のたゆたい」みたいな時間を過ごしているではないか。

 そもそも、あの二胡の音色が、
このせかせかした現代の日本を、
一瞬にして、中国の墨絵の中に連れて行ってしまうのだ。

 音楽というものは、本当に不思議だ。

 荒れた気を、瞬時に整えてしまう。

 独特の空気の振動が、聴く者の気を換えてしまう。


 そうだ。
 私も、もう一度、楽器を吹いてみよう。
 思いついたら、もう、矢も楯もたまらず、
ネットで、びっくりするほど安値で出ていたバリトンホルンを買ってしまった。
 25年ぶりに吹いた管楽器だったが、
案外すぐに勘を取り戻して、
何回か吹くうちに、「星に願いを」など、数曲吹けるようになった。

 吹く前は、仕事の忙しさや、子供がらみのストレスで
心がガッサガサだったのに、
1時間ちょっと吹いたら、もう、気持ちが洗われている。

 溜まり溜まった洗いものを一気に片づけたみたいに、
清々としたした気持ちになった。

 ぴかぴかの流し台みたいな、
空っぽの洗濯かごみたいな、
きれいさっぱり片付いた心になって、
次にやってくる大量の洗いものを
「バッチ来い」と迎え入れる気構えができた。

 二胡のじいさん、ありがとう。
 私は、もう一度、
音楽と共に暮らす生活を思い出しました。


 今朝、いつものように、自転車で配達の仕事をしていると、
公園で、あの二胡の音色が聞こえてきた。

 見ると、やはり、
あのじいさんと、男の子だった。

 じいさんも、
男の子も、
実に悠々とした表情で、
二胡の音色が、周囲の空気を浄化しているのがよくわかった。

 公園の横を通り抜け、
背中でいつまでも二胡を聴きながら、
自分の生き方を変えるのは、
社会でも政治でもなく、
最終的には、自分なのだと、
思った。

 音楽を友にして生きれば、
どん底の状況でも泣きながら笑える。
 音楽があれば、
煮詰まって焦げ付いてしまった頭と心と体を、
3分できれいにしてしまう。

 誰のせいにもせず、
何かに責任を転嫁したりもせず、
今自分の置かれた状況の中で、
怒らずいじけず、精一杯、まっすぐに生きていける。

 音楽を友にして。


(こんなヤツがいた!)2009.9.15.あかじそ作