「 おじいちゃんバイバイ 1 」


 おととし、長男が高校受験の年は、
受験間際ということで、正月の帰省は控えたが、
次男の受験がある今年は、帰省することにした。
 末期がんの夫の父が、いよいよ危険な状態になったのだ。
 
 7年くらい前に直腸がんが発見されてから、
肺や肝臓に次々と転移していったというのに、
投薬と時々打つ抗がん剤の点滴がよく効いて、
びっくりするくらい元気だった。
 日本中、いや、時々はアジアの国々にまで、
友人と共に飛び回っていたくらいだ。
 
 新しい車にも買い替え、
時間を惜しむように毎週ドライブ旅行に飛び回り、
また、脳梗塞で半身不随になった自分の妻(つまり夫の母)や、
後天的に障害者となった娘(夫の妹)の身の回りの世話もよくしていた。
 
 非常に無口で朴訥な人、というか、
根はいい人なのだが、
基本的にぶっきらぼうなもの言いをする人で、
ウェットな人間関係を強く求める夫の母とは、
若い頃からあまりうまくいっていなかったらしい。
 
 晩年は、半分家庭内別居のような生活をしていた。
 
 誰かが持ってきた食べ物を、
みんなが旨い旨いと言って食べている時に、
「まずい!」と言い放って空気を凍らせてしまったり、
家族が「面白いねえ」と盛り上がっていても、
「そんなのひとつも面白くないわ!」
と言って、みんなを黙らせてしまうようなところがあった。
 
 いい人なのだが、
元も子も無いことを言う。
 淡白と言えば淡白、
ピュアと言えばピュア、
つまり、今風に言えば「空気が読めない」人だった。
 
 そんなわけで、妻や子供たちには、
大変煙たがられていたのだが、
孫ができ、その孫がよくなついて
「おじいちゃんおじいちゃん」
と、まとわりついていくようになると、
てれっと目じりを下げて、
本当に「優しいおじいちゃん」になったのだった。
 
 1月3日、
私たちは、深夜の東京で寝台車に乗り、
寝ている間に夫のふるさと金沢に着いた。
 翌朝6時過ぎだった。
 
 夫の弟が、電話で、
「こっちに着いたら、なるべく早く病院に行って会った方がいいわ。
それくらい、もう、刻一刻と悪くなっとるわい」
と言うので、夫の生まれた家に荷物を置いてすぐ、
病院に急いだ。
 
 病院に続く道は、
ここ数日で降り積もった雪が、きれいに雪かきされ、
道の両脇に高々と積み上げてあって、
とても歩きやすくなっていた。
 それなのに、関東で育ったうちの子供たちは、
雪が珍しくてたまらず、
わざわざその雪の山の尾根伝いに歩き、
靴をびしょびしょにしてしまった。
 
 小学生だけでなく、
大きなズウタイの中高生までもがそんなことをしているので、
地元の子供たちが奇異な目で見ていたの何だか可笑しかった。
 
 病院に着き、父の入院している病室に行くと、
そこには、骨と皮だけになった父がいた。
 
 もうだいぶ前から食事ができなくなっていて、
かなりやせてしまったと聞いてはいたが、
それにしても、こんなに人は短時間で人相も変わるものか、と、
愕然としてしまった。
 
 若い頃、ジャニーズ系のイケメンだった父は、
70歳を超えてもかなり可愛い顔をしてたのだが、
目が大きかった分、
やせると、ガリガリの顔にギョロッとした目が目立ち、
痛々しいほどだった。
 
 それを見た夫や、息子たちは、ハッと息を飲み、
誰も、一言も発しなかった。
 みんな何を言っていいのかわからずに、
ただただ凍りついて固まっていた。
 今にも死にそうな人に、何と声を掛けていいのか、
誰にもわからなかった。
 
 大勢で病室にいるにも関わらず、
音がひとつもしないのだ。
 
 信じられないくらい長い沈黙が続き、
どうしたらいいのか困り果てた頃、
末っ子の4歳の娘が突然大きな声で沈黙を破った。
 
 「あけまして! おめれとお! じゃじゃいます!
 ことしも! よろしく! おねらい! しわす!」
 
 娘が元旦に次男から教わった正月のあいさつだ。
 これを連発して家族みんなにほめられて、
すっかりご機嫌になった娘は、
「おじいちゃんにも言う」と、はりきっていた。
 
 父は、すっかりやせて、
誰だかわからないほど人相が変わってしまったというのに、
娘は、しっかりとおじいちゃんの顔を見つめ、
正月のあいさつをしてのけた。
 
 今年もよろしくと言ったって、
もう、今年も何日も生きられないという人に向かって、
しっかりと「ことしもよろしく」と言った娘。
 
 そこにいた者がみな、ハッとして、
娘に続いた。
 
 「おじいちゃん、あけましておめでとう!」
 「おめでとう!」
 
 もうそれ以上は、何も言えなかった。
 「大丈夫?」とも聞けない。
 大丈夫ではないのだから。
 「体調どう?」とも聞けない。
 体調は最悪、今にも死にそうなのだから。
 
 でも、何とか、
生きて新しい年を迎えることはできた。
 だから、「あけましておめでとう」でいいのだ。
 「あけましておめでとう」しかないのだ。
 
 
 それをきかっけに、
今度は、父の方から、
ほとんど聞きとれないような弱弱しい声ながらも、
「いろいろ観光していけ」とか、
「ゆっくりしていけ」とか、
いろいろ話してくれた。
 
 あまり長く居て、父を疲れさせてはいけないと、
早々に切り上げると決めていたので、
「お大事に」と口々に言って病室を出たのだが、
帰り道、子供たちの足は重かった。
 
 さっきはしゃいで蹴り飛ばしていた雪の山が、
今は、まるで目に入らないようだった。
 
 「なんて声掛けていいかわからないし、
何かしゃべると泣きそうになっちゃってさあ」
と、長男は言った。
 
 「ホントそうなんだよ」
 子供たちは、口々に同意した。
 
 もう、長くないことは、歴然としている。
 
 優しい言葉ひとつ言わなかった父が、
数日前、母に対して
「いい夢を見させてもらった」
と言ったという。
 
 これは、もう、いよいよお別れだ、
と母は悟ったそうだ。
 
 家庭内別居していたとはいえ、
もともとウエットな母のこと、
毎日泣いて暮らしているようだ。
 
 
 二日後、家に帰る日、
もう一度父と会って、最後のあいさつをしておこう、
ということになり、病院に向かったが、
子供たちは、正直、
「忌の際の人」となっているおじいちゃんが少し怖い、という。
 
 それもわかる。
 凄くわかるが、もう一度、
きちんと挨拶しておこうじゃないか。
 
 自分たちを、
生まれたときから無条件に愛してくれた人だ。
 
 ちゃんと感謝の気持ちと、
おじいちゃんに対する愛情を示しておこうじゃないか。
 
 病室に入り、
今度は、ひとりひとり、父の手を握り、
「おじいちゃん、お大事に!」
「おじいちゃん、がんばってね」
「おじいちゃん元気出して」
と、しっかり目を見て話した。
 
 心の中では、みんな、
(おじいちゃん、ありがとう!)
と叫んでいたのだ。
 
 最後に夫が父の手を握り、
そして、しばらくしてから離すと、
父は、細い手を伸ばしてもう一度夫の手を捕まえ、強く握った。
 
 言葉は、何も言えなかったが、
強い目力で夫を見据え、
手を離しても、すぐにまた夫の手を捕まえて、
何度も何度も父は、夫の手を握った。
 
 その目は、
「たっちゃん、たのむぞ!」
「たっちゃん、がんばるんやぞ!」
と叫んでいた。
 
 夫は、
「うん、うん、わかった。わかったぞ」
と何度もうなづき、
強く手を握り返していた。
 
 
 事情が分かっているのか、いないのか、
病室を出るとき、
4歳の末娘が、大きな声で言った。
 
 「おじいちゃん、バイバ~イ!」
 
 それが、父との本当のバイバイになった。
 
 私たちが東京に帰った二日後の深夜、
父は、眠るように逝ったのだった。
 
 
   (続く)
 
 
 
 
  
 
 
 
 
 
 
 
 
 しかし、白いひげが伸び放題になり、
一見、晩年の宇野重吉のようで、なかなか渋くもあった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  
 
 
 


(子だくさん)2010.1.19.あかじそ作