「 痛い母やめます 」 |
三男のしつけに、もう、へとへとになってしまった。 三男の喧嘩相手の親から、 「うちの子に何かしたら、知り合いの【その筋の人】に絞めてもらうよ」 「この辺のチンピラのトップに何とかしてもらう方法もあるし」 「不動産関係に手を回して、この辺に住めないようにもできるわよ」 等々、ハッキリ言って電話で夜中6時間も脅迫され続けられれば、 心身ともに、ちょっとおかしくもなるはずだ。 仕事をしていても、ぼんやりしてしまって集中できないし、 一日中気持ちが沈んで、少しのことでイライラもするし、 最近の私は、完全に落ち込んでいるのだった。 先日読んだ新聞の記事に、こんなことが書いてあった。 ウツになる人のほとんどが、 『社会の中での自分の評価を気にしている』 『自分の仕事に対して、常に数値的評価を下されていた、という経験を持つ』 だから、そんな人たちには、 他人からの評価よりも、自己満足を追求する 「オタク」的趣味をすすめます。 ・・・・・・と。 そう言えば、 私が三男に関して悩んでいることだって、 悩みの内容をどんどん追究していくと、結局、 「これじゃあ、よそ様に顔向けできないわ!」といった 【世間体】に基づいているのではないか? と、いうことは、 「我が子の言い分だけを信じきり、ベタベタに可愛がり、 他人に自分がどう思われようと我が子を守る」 という、【6時間脅迫母】よりも、 「ちょっと、ちゃんとしてよ!」と、 連日ガミガミ三男にどやしつけてばかりの 私の方が、よっぽど病んでいるのではないか? 少なくとも、子供にとっては、 「あんたを完全に信じる」 「あんたを命がけで守る」 と言うお母さんは、【ゆるぎなき慈愛の存在】で、 「あんた嘘ばかり言うから信じられないよ」 「人に何か言われるようなことしないでよ」 というお母さんは、単なる【嫌なババア】だろう。 前者が【脅迫母】で、後者が、私。 駄目だな。これは。 親子関係だけで言ったら、悔しいが、完敗だ。 もし、自分が思春期のとき、親が今の私みたいに 「後ろ指を指されるようなことをするな」 と、ばかり言っていたら、 絶対、人として軽蔑していただろう。 「世間」よりも、「私」を一番に考えてよ! と、叫ぶだろう。 何だかんだ言って、今までの私は、 【人からの評価】を一番の基準にして生きていたのだ、結局。 だから、大人になっても、 ちょっとしたことでもすぐ傷つくのだ。 いつもいつも気を張りながら、 刃先を自分の喉元に向けて暮らしているから、 ちょっと人に押されただけで致命傷を負うのだ。 実態のない【世間】という名の、無責任で一時的な噂や悪口を気にし、 それに照準を合わせて人生を組み立てていったとして、 実際、人生がうまくいかなかったとしても、 姿形を持たぬ【世間】様は、責任など取ってくれやしないのだ。 なのに、なぜ、今まで私は、 人からの評価を基準に生きていこうとしていたのか? 他人からの評価を気にしてばかりいたら、 そりゃあ、「気にしい」になるだろうし、傷つきやすいだろう。 それは、自分が「ピュア」だからではなく、 【世間体第一主義】だからなのだ! 確かに、私は、幼い頃、 親から虐げられていたことがあり、 「親から気に入られなければ生きていけない」 という切羽詰まった本能的な危機感が強いのかもしれない。 でも、そんなことは、過去のことだ。 もう、過去とは決別し、 その頃の親も、その頃の自分も全部消化して、 これからを生きていかなければならないのだ。 今月には、ぞろ目の44歳になることだし、 人生の半分を折り返したのだから、 もう、根底から意識的に自分を改革していく必要があるだろう。 そもそも、 「子供を信じましょう」 とか言ったって、 私自身が、自分をちっとも信じていないのだから、 誰をも信じることができないのは、当然だろう。 子供を信じる前に、 まず自分を信じることから始めなければ、 すぐにメッキが剥がれるのは必至だ。 元々私は、自分のことがそんなに嫌いではなかったのだが、 20年間も親から「ブス」「デブ」「ノロマ」「死んじまえ」と連呼されていたため、 二十歳を過ぎて「あんた綺麗になったわね」と、急に親に言われたところで、 心身ともに沁みついた【「どうせ」根性】は、ついに消えなかった。 学級委員長をやっても、 トップの成績で企業に受かっても、 自分を評価するどころか、 完璧でない自分に傷つくばかりだった。 子育て然り。 こんなに頑張っていたって、 「親なんだから、大変なのが当たり前だ! 自分でまいた種だろうが!」 と、取り付く島も無く両親に言われれば、 「子育てが大変だ」なんて愚痴は、二度と口が裂けても言えなかった。 常に目いっぱい頑張り続けているのだが、 私の自己評価は、いつも低い。 その自己評価の基準は、かつて私の両親が作った基準だ。 それは、いつも、とてつもなく厳しい。 自分では、まあまあイケテルな、と思っても、 両親の基準で満点を取れなければ、0点同様。 心の中の全面に、 正しい答えごと、 赤で大きくバッテンを付けられる。 だ〜〜〜か〜〜〜ら〜〜〜! 両親からの評価は、もういいってのに! すでに私の両親は、とっくに隠居して、 夕方から酔っ払ってへらへら好き勝手に楽しんでいるし、 朝方までテレビを見て、昼まで寝ているし、 体たらくでご機嫌な余生を送っており、 今の私を、遠巻きに応援してくれているというのに! いつまで過去に囚われている?! というか・・・・・・ 結局・・・・・・ 【世間】からどうこう、 じゃなくて、 私は、いまだに、 父と母から、 いや、 「パパ」と「ママ」から、 ほめてもらいたくてたまらない、 愛してほしくてたまらない、 幼な子のままじゃないか?! 「大人げない」どころじゃないぞ。 「子供げ」までも行ってないじゃないか!! ばぶ〜って、 「幼児」じゃねえか?! こらぁ! 四十過ぎて、ばぶ〜っ。 痛いぞ! 痛すぎるぞ! 私!!! 大人として! 親として! 三男のことで、 悩んで、悩んで、 ある先輩に相談してみたら、 「三男に自信をつけさせなさい」 と教えてもらった。 確かに! 確かにそうだ! 他人をからかって傷つけてしまうのも、 怖い相手からの誘いを断れないのも、 自分に自信が無いからなのかもしれない。 誰かを否定することで、自分の価値が上がったような気になるのも、 力の強い者の言うなりになるのも、 自分に何一つ誇りが持てないからなのだろう。 「僕には、これがある」 という武器(自信)があれば、 どんなシチュエーションでも、心が自然と武装されているため、 堂々と自分の道を歩いて行けるじゃないか。 三男の自信や誇りを育ててあげられなかったのは、 私に自信や誇りが無いからだ。 「いいわけ」や「うわべだけの謝罪」ばかり上手になって、 本当に必要な心の芯が通ってなかった。 もう、上っ面でペラペラの、 世渡りのノウハウや、 子育てのレシピなんか要らねえや! 自分が、自分であることに、ひたひたと喜びを感じながら、 「今日は、どんな面白いことしようかな?!」 「よっしゃ! オイラの人生に幸あれ!」 と思いながら生きていけば、 人の悪口とか、脅迫とか、 そんなダーティーなものが入り込んでくる余地なんて無くなるじゃないか。 ダーティーなことを、その都度一個一個駆除するよりも、 常に「自信」や「誇り」を身に着けていれば、 強力な蚊取り線香を焚いているのとおんなじなんだ。 物凄い鎧を着ているようなものだ。 ああ、そうしよう。 そうだ、そうだ。 まず、私が、「自信」と「誇り」を持つ。 自分を愛し、いつくしみ、 それでも愛があり余り、 自然と周りを愛さずにはいられない。 心に余裕を持ち、人に優しく接し、 いたわりの言葉をかける。 人の失敗も、自分の失敗も、 笑って許せるゆとりがたっぷりとある。 そうすれば、おのずと子供たちにも、それは、 水ぼうそうのように、 風疹のように、 おたふくかぜのように、 どんどん大感染していくだろう。 狭い家の中で、大勢で、 ぎゅうぎゅう押し合いへしあいして暮らしているのだから、 嫌でも、すぐに流行るだろう。 今日から、今から、 すぐ変わります、私。 痛い母、やめます!!! (了) |
(子だくさん)2010.6.1.あかじそ作 |