しその草いきれ 「空荷(からに)のゆううつ」


 連日の猛暑の中、
何とか倒れずに生きてこられたのは、
配達の仕事のおかげではないか、と思っている。

 冷たい布を首に巻き、飲み物を持って、
ふらふらになりながらも、炎暑の屋外で走り回れるのは、
「今、目の前にある配達物を、間違いなく各宛先に投函する」
という使命感からに他ならない。

 これ一通配るといくら、今日一日でいくらになる、
などという計算ももちろんするけれど、
そのこと自体が働く原動力ではなく、
やはり、炎天下にテイヤッ、と気合いを入れて飛びだせるのは、
使命感があるからだと思う。

 現に、プライベートでは、
この熱い中、自転車で出掛ける気にはさらさらならない。
 近場の買い物でも車で出掛け、
家では、朝から晩までエアコンの中にいる。


 「自分がやらなければならない労働」というものは、
家事にせよ、育児にせよ、仕事にせよ、
確かにおっくうで気の重いものではあるけれど、
「それ」がいっさい免除され、
「あんた何にもしないでいいよ」
「ただ楽に生きていれば、それでいいよ」
などと言われてしまうと、
これはこれで、こんなゆううつなことは無いのである。

 それはまるで、
「あんた用無しだよ」
と宣告されたようなものだと、
感じてしまうからなのではないか。

 「有閑マダム」ということばがあるが、
金があって、暇があって、
自由気ままに贅沢な暮らしを満喫している、という奥さんが、
心の底からその「有閑」を歓迎し、
満喫しているのかどうかは、疑問だ。

 カメが甲羅を背負うように、
人は、何かしら背負っていないと、
背中がスースーと、うすら寒いのではいか?

 空の荷物を背負った者は、
その軽さゆえ、気持ちも軽く生きていける、
というのは、実は気のせいで、
空荷を背負って生きることほど、
虚しく、気の重いことはないのではないか?

 自分が生きているのかいないのか、まるで実感がなく、
自分自身に血が流れていることや、骨と骨とが筋でつながれ、
それを躍動させて体を動かしていることすら、
頭では、何ら気付かぬまま、
体だけが裏方のように息を殺して働いているということになる。

 病気になって初めて、
自分が生身の肉体であることに気付き、
怖気づくのではないだろうか?


 背中の荷物は、その人にとって重すぎてはならないし、
軽すぎてもいけない。
 重すぎれば、その荷に潰され、動けなくなる。
 その重さを恨み、近くに居る者を憎み、
自分の怨念で荷が余計に重くなり、結局動けなくなる。
 また、荷が軽すぎれば、
楽しいような、空しいような毎日の中で、
実感の無い人生をただ生きるだけの、
長い長い暇つぶしのような地獄の日々が延々と続く。


 私は、若い頃、
空荷のゆううつに苦しんだ後、
自ら望んで重すぎる荷を追い、
その思った以上の重さに絶望し、
たびたび自滅しそうになることがある。

 プレ更年期とも重なり、
自分でもコントロールできないような焦燥感にさいなまれ、
イライラをぶちまけては、家族に煙たがられてばかりだ。

 でも、今日もまた、
つぶれずに生きていけるのは、
使命感にのっとって、
自分の肉体を使って配達し、 
毎日、小さな達成感という心の報酬を得ているからだ。

 流れる汗をぬぐい、
重い自転車のペダルをこぎ、
自分が今この瞬間、生きているのだ、という実感を得ているからだ。

 働けることのありがたさを、
身を持って痛感している。

 肉体労働は、精神労働の疲れを癒す一番の灸だ。
 
 大変な労働であるにもかかわらず、
生き生きと働いている人たちがたくさんいる。
 彼らは、重労働を背負った不幸な人たちではなく、
肉体と精神をバランスよく運営する、
実は、幸福な人たちなのだ。

 
  

 (しその草いきれ)2010.8.17.あかじそ作