しその草いきれ 「ぽわん、と生きる」



 しばしば、「ぽわん」と生きている人を見かけるが、
今まで私は、そういう人のことを、
「悩みが無くて、気楽でいいねえ」
と、思っていた。

 しかし、最近、考え方が変わってきた。

 どんな人にも、平等に、つらいことや哀しいことが起こりうる。
 楽しいことにも、悲惨なことにも、同じように遭遇し得るのだ。

 しかし、主観的な私ときたら、
「嗚呼、自分ばっかり壮絶で、悲惨で、哀しくて、大変!!!」
と、始終マジ泣きしたり、吠えたり、シュンとなったりしている。

 しかし、同じことが起こっても、
「ぽわん」と生きている人は、
ちょっと泣き、そして、頬笑み、
やがて静かに立ち直っているように見える。

 なんなんだ、その安定感は?
 鈍いのか?
 いや、そうとばかりは、言えない。

 どちらかと言うと、
誰とでも仲良しこよしで、
何もかもうまくいっていることが当然で、
ちょっとでも何かトラブルが起きてしまったら、絶望的に落ち込む、
という私の考え方の方に問題があるのかもしれない。

 「ぽわん」と生きている人は、
もしかして、私が思っているより、規模のデカイ人間なのかもしれない。
 (バカっぽいな)と内心小馬鹿にしていたところがあったが、
意外にも、器の大きな、利口な人なのかもしれない。

 「人間関係は、少しのほころびも無く、完璧に友好的」
「無病息災」「家内安全」「学業成就」
「思った通りに事が進むのは、当然至極」

 ・・・・・・これを標準仕様として考え、
一個でもそうじゃない点があったら大事件、
と考える私は、
よく考えたら、物凄く狭い了見の人間ではないか?

 いつも、頭の中で、ぼんやりと自分を
「完璧主義だから傷つきやすいのかなあ」と思っていたが、
ちゃんと文章にして書き出してみれば、
何てことない、
「思った通りにいかなきゃヤダヤダヤダ〜」
と、わめき散らす、ただの、我がままなお子ちゃまじゃないか!

 「ぽわん」としている人は、
実は、ただ「ぽわん」としているのではなく、
突然起こるイレギュラーな出来事に対しても、
「まあ、起こりうる想定内のことですわな」
という腹の据わった大物なのかもしれない。

 そして、恐ろしく広範囲で、あらゆる場面を想定していて、
大概の事は、「想定内」だから、
びっくりもしないし、今更傷つくこともない、
ということなのではないか?

 そう考えると、私も今日から、いや、今からでもすぐに、
おれも起こり得る、これもあるよね、と、
あらゆることを想定しまくって、
さっそく「ぽわん」としてみたいものだ。

 あらかじめ、
「この世で何が起こってもおかしくないんだも〜ん」
と、腹をくくれば、
ちょっとやそっとのことでは、驚かないし、傷つかない。
 傷ついても、想定中にすでに「エア傷つき」の経験があるから、
初めてじゃない。免疫ができているはずだ。

 目下、我ら四十がらみは、プレ更年期にて、
グラグラする情緒をもてあましそうになるお年頃ではあるけれども、
それでも、
「しじゅうにして惑わず!」
と、豪語するには、
やっぱり、何もかも全部、一回想定してみなくちゃならないのかもしれない。

 そして、何が起きても、
「あ〜、はいはいはいはい」
と、大きくうなづき、
「あるよね〜、そんなことって、ありがちだよね〜」
と、初めてのトラブルにも取り乱さない態勢を整えておきたいものだ。

 そして、
「自分って! 自分って!」
みたいな、10代並みの過剰な自意識を、
「どうどうどうどう」と飼いならすのだ。
 時代や歴史を構成する1パートを担う自分に、
小さな誇りを持つことだ。

 「わかる。わかるよ・・・・・・」
と、後ろからがっしり肩を抱いてくれる、もう一人の大人っぽい自分を、
心の控室にいつも置いておくといいかもしれない。

 そういった上で、「ぽわん」と生きる。

 子供の頃、私の周りにひとりもいなかった「成熟した大人」。
 
 自分が今、その「成熟した大人」になることが、
一番みんなのためになり、一番自分を助けるんじゃないかと思っている。

 親の情緒不安定で仕方なく大人にならざるを得ない子供たちには、
「無邪気な子供時代」も、
「成熟した大人時代」も無い。

 ただ、「しっくりこない日々」が生きている間じゅう続いているだけだ。

 「しっくりこない日々」に、今日で終止符を打ち、
今日から私は、俄然「ぽわん」とし、
一見、ノーテンキでおめでたく、実はかっこいい大人になるのだ!

 全然、誰にも気付かれないだろうが、
中身は、凄まじく激しく、
「ライダァ〜〜〜、変身!! と〜っ!」
なのだ。


 
 (了)


 (しその草いきれ)2011.1.11.あかじそ作