「 パートの役割 」 |
昔からよく聞くセリフに、 「俺は、組織の歯車の一つで終わりたくないんだ〜! うお〜!」 というのがあるけれど、いまだにそれを言う人を見ると、 「ええ〜〜〜?」 と思う。 おそらく、 「俺は、そんじょそこいらの能無し野郎なんかじゃねえんだよ!」 「組織の中で使い捨てにされてたまるか!」 ということを言いたいのではないかと思うが、 そもそも、【歯車】を何だと思っているのだろうか? 精密に動く機械の一部品である【歯車】が、 「有っても無くてもいい、どうでもいいもの」 という認識なのか? それは、間違っている。 歯車一個欠けても、機械は動けない。 全体が機能しなくなる。 それほど唯一無二の価値がある歯車一個一個に、 ずいぶん失礼な発言ではないか? 組織の歯車になる。 結構なことじゃないか。 自分の名前を呼ばれることなく、 「歯車3」などという扱いをされることが我慢できないのなら、 自分がその機械の「顔」というパートを受けもてばいいじゃないか。 例えば、世の中には、「アイドル歌手」という仕事があるが、 それは、決して、 きれいな服を着て、人にチヤホヤされ、 自己顕示欲を満足させていればいい、という仕事ではない。 常に、自分の顔や、スタイルや、身辺を、常にこぎれいに保つ、 という努力が要求される。 総合演出者のもと、楽曲制作者の作った作品ごとに、 歌唱指導者、レコーディングディレクター、 衣装係、ヘアメイク係、振付係他、たくさんの手が加わって、 ひとつの曲の全体像が作り上げられ、 そういう大勢のスタッフの作り上げた神輿の上にきれいに乗っかって、 見栄え良く、耳当たりよく、存在する。 無名の大勢のスタッフが、 商品であるところの「アイドル歌手」を機能させる一歯車であるのと同様に、 「アイドル歌手」もまた、 「顔」というパートを担う、 一歯車であることに変わりないのだ。 その誰かひとりでも、 「あたしがあたしが」 と、他を押しのけてまで勝手な回転を始めると、 その歯車は空回りし、全体が止まってしまう。 すでにその「あたし」は、歯車でさえあり得ず、 線路の上に置かれた小石のような存在になってしまう。 ただちに組織から退かなければならない。 結論から言えば、 人は、いや、すべての動植物は、みな、 それぞれ違う役割を持つ、パートとして存在しているのだ。 パートパートには、みんな、 大事な役割があるだけでなく、毛色の違う味わいがあり、 社会にとって、そのどれもが欠けることは、あり得ないのだ。 我々、今を生きる人間たちは、そのことを、 わかっているようで、わかっていないのではないだろうか? それぞれの人間が、 自分のできること、自分の役割を、懸命に取り組むことで、 社会が動き、世の中は回っている。 このことを、みんなが自覚できなくなっているのではないか。 自覚できなくて、働く目的を見失い、 それで、みんな、 誇りや使命感を持てなくなってきているのではないか。 どこかの何人かの政治家が社会を動かし、 我々は、ただただ、言うなりになって、 なされるがままに搾取されてばかりだと、 あきらめてしまっているのではないか。 確かにそういう一面があることは、否めないが、 しかし、見えないところで、人や物を動かしているのは、 不特定多数の市民ひとりひとりなのだ。 ものをつくる職人。 物資を運ぶ運転手。 記録を管理する役人。 技術を研磨する研究者。 物販を仕切る小売業者。 教育を担う教職員。 その他にも、 ネットワークを維持管理したり、 市民の安全を守ったり、 人と人とを結びつけたり、と、 数えきれないほどの種類の【働く大人たち】がいる。 みな無名の聖人だ。 この国を、未来を動かす、貴重な一歯車だ。 そして、我々、子供を育てる親ひとりひとりも、 その中の大事な事業を担う一員なのだ。 これからの世の中を作る人材を、 我々親が日々手作業で作り上げているのだから、 もっと誇りを持っていいのだと思う。 もっと堂々とプライドを持ち、志を高く持って、 ことあるごとに、子に、ものごとを教えていこう。 愛のもとに。 親というパートを担っていることに、 もっと誇りを持とう。 使命感を持とうじゃないか。 一段高いところに登り、 遠い未来を指さし、 子らに指し示そう。 時には、子を抱きかかえ、肩車して、 その行く先を見せてみよう。 自分ひとり巧く生き抜くことのくだらなさ、虚しさを諭し、 人を助け、人に助けられ、 みなで手を携えていくことで、 自分の生きる場所というものが出来上がっていく、 ということを語ろう。 親と言うパートの役割は、大きい。 物凄く大きい。 学校の先生や、自分の子の喧嘩相手に噛みついている暇なんか無い。 教育委員会に怒鳴りこんでいる場合なんかじゃないのだ!!! (了) |
(話の駄菓子屋)2011.4.26.あかじそ作 |