「 何を信じるか 」


 物心ついた頃から、
周りの大人は、みんな、自己中ばかりだった。

 気まぐれに子供を抱き上げては、
「やっぱ、めんどくさい」と、
突然地面に落とすようなヤツばかりに囲まれていた。

 親も、親戚も、学校の先生も、
みんな、ろくな人間じゃなかった。

 幼少期から、大人に裏切られ続けてきた私は、
それで、不信感にさいなまれた子になったか、というと、
そうでもなかった。

 信じて、思い切り裏切られても、また信じる。

 信じて、身を任せると、とたんに突き放されて、
身も心もずたずたに傷ついても、
それでも、また、馬鹿みたいに頭がリセットされて、
また信じていこうとしていた。

 その繰り返しで大人になったのだが、
ここへきて、もう、「信じること」に疲れてきてしまった。

 信じて、裏切られて、傷つく。
 これは、もう、慣れているから、いい。
 いつものことだ。

 しかし、今は、もう、それができない。
 
 「それでも、信じよう」というパワーが、
もう完全に売り切れた。
 ソールドアウトだ。

 両親や夫に対しては、
もう、「信じる対象」では、無くなった。
 こっちがどんな風に働きかけても、
本人たちに行動を改める気が1ミリも無いので、
もう、私の心の中で、
「気の持ちよう」をやりくりしながらつき合うしかない。

 子供たちに関しては、これは、信じることにした。
 信じられないようなことをやってのけられても、
それでも、母親の私は、
この子たちを受け入れてやるほか無い。
 選択肢が無い分、こちらは、返って気が楽だ。

 愛するしかない。
 受け入れるしかない。

 難しいことを考えなくてもいいから、これは楽でいい。


 ところが、こんな震災の最中、
「必ず誰かが助けてくれる」
「世の中には、弱い者を救うシステムがある」
「国が国民の命を無視するわけがない」
と、疑いも無く、ずっと信じてきたことが、
そうでもないぞ、ということがわかってきた。

 社会的にも、この国は、不信感でいっぱいになっているし、
個人的にも、それぞれ、不信感にまみれている。

 そんな中で、
本当に命にかかわるような苦しみの中にあり、
今日明日にもどうにかなりそうなくらい
つらい状況にある被災地の人々からは、
「国は、あてにできないから、自分たちで何とかする」
と言う声が上がってきているではないか。

 それで、私は、ハッとした。
 目が醒めたのだ。

 「信じます」
 「信じているので、助けてください」
 「信じているので、愛してください」
 「なぜ私の思うように動いてくれない?」
 「なぜ私を楽にしてくれないのか?」
 「ああ、それならば、あなたを信じられない」
 「何もしてくれないなんて、ひどい!」
 「私は、つらい」
 「何もしてくれないあなたのせいで」
 「私は哀しい」
 「あなたを信じられないことが」

 これが、「不信感」というものの「キモ」だとしたら、
それは、まぎれもなく、
私の大嫌いな「依存心」に他ならないではないか。
 
 「信頼」ということばを借りた、
ただの、自己中な「依存心」のエゴじゃないか?


 「信じるだけで、自分は、何も動かない」
という怠慢。

 乞うばかりで、自分は、何も与えない。
 ふんぞり返って、
愛や夢や金や力を人からタダで恵んでもらおうとしている。

 目を潤ませて、
「あなたを信じていますから」
と可愛いことを言いながら、
その実、人からいろんなものを奪いまくろうとしている。

 違う!
 これじゃ、ダメなんだ!

 私は、今まで、ただ寝っ転がって、
周りの人すべてを、
自分に、かしずかせようとしていたんじゃないか?

 「信じる」ということを、
間違った認識で覚えていたんだ。

 「甘えが通じる」
 「自分を楽させてくれる」

 これを実現してくれる人を、
「信じられる人」だと思っていたが、
全然違うんだ。

 え?

 じゃあ、「信じる」って、本当は、そういう事なんだろう?

 三省堂 「新明解 六 国語辞典」で調べてみる。

 【信じる】:@あらゆる点から見て、
         それが真実で疑う余地が無いと思い込む。
       Aそのことに関する自分の判断が正しいと思い、
         他の考えを入れる余地が全くないものとする。
       Bまちがいがないものと認めて、
         その言った(行った)事などを積極的に受け入れる。
       C神や仏などの絶対的な力に心から従って、
         その教えの通りにしようとする。


 なるほど・・・・・・

 な〜〜〜るほど・・・・・・

 要は、
先方の言うことやることが、
科学的に間違っていようと、
倫理的に狂っていようと、
判断する自分自身が、
「あ、それ、いんじゃね?」
とさえ思いこみさえすれば、
それを「信じる」と呼ぶわけだ。

 あくまで、自分の「判断」なのだ。

 つじつまなど、合ってなくていいのだ。
 何に対して、
「これで行こう!」
と思うか、なのだ。

 ああ、そうか。

 立派じゃなくてもいいのか。
 尊敬など出来なくてもいいのか。

 じゃあ、両親や夫も、
社会的には、どうしょうもないヤツらだけれども、
私自身が「しょうがねえなあ」と思えば、
それで充分、信じるに値する存在、というわけだ。

 あ・・・・・・そう!
 そうなの?
 そうなんだ?

 じゃあ、私、ずいぶん楽になるんですけど。

 要するに、
バカボンのパパみたいに、
「これでいいのだ」
と言えば、救われるんだもの。

 そうだよね。
 世の中、そうそう、完璧な人間など居ないよ。

 立派な大人なんて、そんじょそこいらには、居ないわな。 

 「こいつ、どうしようもねえなあ」
と思っていても、
「でも、ま、いっか」
と、さえ思えれば、
「信頼感」というクッションに包まれるわけだ。

 な〜〜〜〜〜んだ。

 な〜〜〜〜〜〜〜〜〜んだ。

 何を信じるか、って・・・・・・あ〜た、そりゃあ・・・・・・

 自分の感覚で、
「ま、いっか」と思うことを、
「そういうことにしておきますか」
と、決めておけば、それでいいわけだ。

 それが、信じる、ということなんだ。

 な〜〜〜〜〜んだ!
 思ったより「ぽわん」としてやがんな!


  (了)


 

(しその草いきれ)2011.7.12.あかじそ作