「 老練の子供と未熟な大人 」 |
先日、新聞を読んでいて、 う〜む、と考え込む記事を見つけてしまった。 それは、確か、 30代か40代の女性からの、人生相談のコーナーだった。 内容は、ざっと以下の通り。 「私は、いつも人からの評価ばかり気にして生きているが、 最近、それが苦しくて仕方ない。 人にしょっちゅうほめられていないと物足りないし、 ほんの少しでも人から責められると、情緒不安定になる。 このままでは、いけないと思う。 誰に何と思われようと、自分の好きなように生きたい、 と思うのに、それがどうしてもできない。 私は、どういう心持ちで生きていったらいいのでしょうか?」 それに対しての答えは、こんな感じだった。 「あなただけでなく、みんなそうです。 あなたは、人からいい評価を得るために、 自分の気持ちや生活を無理矢理ネジ曲げられている、と感じ、 苦痛に感じ始めているのですね。 しかし、世の中の人間は、多かれ少なかれ、 みな、世間からの評価を気にしながら生きているものです。 また、そうでないと、社会秩序が乱れてしまいます。 さて、万人から常に最高評価を得続ける、ということは、 事実上、不可能です。 同じ人間の同じ行動に対して、 いい評価が得られる時もあれば、そうでない時もある。 また、Aさんからは、いい評価を得られても、 Bさんからは、悪い評価を受ける、ということもある。 ですから、もっと気を楽に、 少しづつ、自分のやり方を通していけるように、 時間を掛けて、練習していけばいいのです」 私は、そこで、う〜〜〜む、と腕を組み、 首をひねって考え込んでしまったのだった。 私自身、人からの評価にぐらんぐらん揺れてしまうタイプだ。 ほめられるとぐんぐん伸び、けなされるとへこみまくる、という、 物凄くわかりやすくて、単純な人間なのだ。 「頑張り女子」の特性、とでも言うべきか、 「人の役に立たなくちゃ」 「自分は我慢してでも、ここをうまく乗りきらなくちゃ」 と、必死で頑張るのだが、 いつも心のどこかで、欲求不満というか、 煮え切らない気持ちをもてあましている、という感じ。 自分を後回しにして、 みんなのために頑張らずにはいられないくせに、 そうやって毎日生じた少しづつの「自己犠牲」に対して、 全然納得していない、という本心。 自分では、そういうところを何とかしたい、と、 結構真剣に悩んでいたりするのに、 いざ、同じ相談を他人が誰かに相談しているのを見ると、 物凄く冷めたような、意地悪なほど客観的な気持ちで、 「ベタな質問だね〜!」 と、どこかでバカにしている。 要は、ベタなのだ、自分の抱えていることも。 自分自身の悩みには、答えは一向に見いだせないのだが、 この人生相談の女性には、こう言いたい自分がいる。 人からの評価に頼らざるを得ないのは、 自分の心の中に、 【おとなの人】が居ないからじゃないでしょうか? 年齢を重ね、経験を積んで、実年齢はしっかり「大人」でも、 精神年齢は、幼い子供が老練化していくばかりで、 いつまでも「大人」になっていないのかもしれません。 人生において、 テクニックを磨き、合理性を見出していても、 それは、稚拙な子供の「熟練」であって、 「大人」では、ないのかもしれません。 本当の「大人」というのは、 自分の子供に対してするように、自分の行動に対しても、 ダメなときは、「残念だったね、次頑張ろうね」と言えるし、 良くできたときは、「良くできたね。えらいよ」と言えるでしょう。 だから、他人からの評価だけに支配されることなく、 自分の中の「大人」から正当な評価を得ているので、 苦しむことは、少ないように思えます。 ・・・・・・と。 ああ、自分の中に「大人」が欲しい。 チビでもいい。 未熟でもいいから、 「大人」の芽が生えてこないかな? 「老練の子供」がいくら熟練しても、 その延長に「大人」がいるわけではなさそうだ。 どうしたら、「大人」が発生してくるのだろう? どうしたら、「大人」が始まるのだろう? 自分では、自分の悩みが解けないので、 誰かまた、新聞の人生相談で、 この質問を相談してください! そうしたら、 それも自分で答えられる気がするから。 (了) |
(しその草いきれ)2011.7.26.あかじそ作 |