「 ここは、地獄にも天国にもなる 」

 今まで聞いた話の中で、感動した話は、たくさんあるが、
中でも、私の価値観を根元から覆した話がある。

 結構有名な話でもあるが、
私が知ったのは、大人になってからだった。

 詳細は忘れたが、その話とは、大体こういう感じだった。


 ある人が、地獄を案内された。

 そこには、椅子が輪になって置かれていて、
その椅子には、それぞれ人が縛られて座っていた。

 中央には、御馳走が山盛りに置いてあるが、
みな縛られているので、御馳走の元に寄っていくことはできない。

 さらに、全員が物凄く長い箸を持っていて、
箸で御馳走をつまむことができるのだが、
箸が長いため、自分の口に食べ物が届かないのだ。

 みんな、目の前の御馳走が食べられなくて空腹にあえぎ、
イライラして、喧嘩ばかりしている。

 それが、地獄の様子だった。


 次に、その人は、天国に案内された。

 御馳走の周りに椅子があり、
そこに人が縛られて長い箸を持っているところまでは同じだが、
違うのは、みんなお腹いっぱい御馳走を食べて、
ニコニコと幸せそうだ、というところだった。

 よく見ると、
彼らは、長い箸で自分の口に御馳走を運ぶのではなく、
自分の箸でつまんだ御馳走を、向かい側の人の口に運んでいる。

 お互いに食べさせ合って、
「ありがとう」「ありがとう」
「おいしい」「おいしい」
と言って、幸せでいっぱいだのだった。


 同じ状況でも、人の心がけひとつで、
その場所は、天国にも地獄にもなる。

 自分の権利や利益ばかりを追い求め、
他人のそれを足蹴にする者たちがいる場所は、
たとえそこが天国のような素晴らしい環境でも、
地獄と化してしまう。

 自分だけの幸福を追い求める人間は、
人の幸せを奪うだけでなく、
自分自身の幸せをも失ってしまうのだ。


 今、この世の中は、
こういう状態で満ち満ちている。

 あっちもこっちも、自分のことで精いっぱい。

 もとから あった良心も、思いやりも、
そういう「自分自分」の世の中で生き抜くために、
やむを得ず封印せざるを得ない状況だったりする。

 
 私が、子供たちに向かって、
「誰か雨戸閉めて〜」
と言うと、大抵、長男か四男が閉めに行く。

 ゲームや携帯に夢中になっている次男三男は、
聞こえないふりだ。

 私は、
「俺がやるよ」「いや、俺が」
・・・・・・というやり取りがあって欲しいのだが、
こういう、日常のちょっとした場面で、
「マメな人間」か「怠け者」かが、ハッキリと見分けられる。

 時々、
次男や三男に、名指しでものを頼むと、
「バイトで疲れてるから」
とか、
「もう、部活で足がボロボロだから」
とか言って、
言い訳ばかりして、
自分が誰かのために何かをしよう、という気が全然ない。

 「みんな疲れているんだよ。あんただけじゃないの」
 「怠け者に幸福は来ないんだよ!」

と、私は、いつも力説するのだが、

「はいはい」

と、流されて終わりだ。

 長男、四男、長女は、
すすんで仕事を引き受ける人間だが、
おだててもすかしても、どう働きかけても、
次男、三男は、自分の都合を最優先にしてしまう。

 しかし、こんなことでは、
社会に出た時、結婚した時に、
絶対、人に迷惑をかけまくり、
結果、解雇されたり、離婚されたりしてしまうのがオチだ。

 親元にいる今のうちに、
あの手この手で
「長い箸で相手の口に御馳走を運ぶ、という考えに気付ける人」
に、しておきたい。

 子供たちが、未来の家族と共に、
どんなに厳しい環境においても、
力を合わせて、想いやり合い、
幸せに暮らしていってほしい、と思う。



 先日、夫の故郷に帰省したとき、
次男夫婦と同居する義母の足が、痛々しくむくんでいた。

 聞くと、次男夫婦は、
義母を大切にしようというつもりで、
義母に一切家事をさせず、
「リハビリだけしっかり通えばいい」
「暗い顔ばかりせず、明るくなってほしい」
と言っていた。

 一方、義母は、
台所を触ることを固く禁じられ、
6畳の自分の寝室か、テレビ前のソファーにのみ
居場所を許されている状況で、
「もういやや」を連呼し、
最近は、リハビリも渋るようになって、
結果、足がひどくむくんでしまったのだという。

 お互いに、お互いを想う気持ちは、ビンビン伝わってくるのだが、
お互いがお互いを地獄へ突き落としている、という状況を、
彼らは、全然気付いていないようだった。


 次男夫婦は、義母と家事を共有し、
リハビリも、無理の無い程度に通えばいい。
 そうすれば、すべてうまくいくじゃないか、

・・・・・・と、第三者は、冷静に思うのだが、
「たまに帰省して、無責任にいい人ぶる親戚」になるのも心苦しく、
お互いの言い分を聞いて帰ってきた。

 相手のために良かれと思うことが、
必ずしも相手のためになっているとは、限らない。

 そのことは、
「スープの冷めない距離に両親がいる」
という私自身が、日々、格闘している課題でもある。


 【相手に気付かれないように、相手のためになることを】


 これが、今、私の掲げるテーマだ。


 【ゴミを拾う】【お膳を拭く】【庭を掃く】【皿を洗う】
 【洗面所を磨く】【テレビの埃を掃う】【玄関の靴を揃える】
 【冷蔵庫の中を片づける】【トイレの掃除をする】【蛍光灯を取り換える】
 【扇風機の埃をぬぐう】【破れた子供服を繕う】【炊飯器の汚れを拭く】

 などなど、

 数え上げたらきりがない、
千も二千もある、
小さく、些末な、「日々のおしごと」を、
嫌がらず、嬉々として行うことが、
幸福の根っこにある。

 この、くそめんどくさい、チマチマした、
取るに足らぬ小さな労働数千個こそが、
実は、
自分の生活を愛し、
自分の人生を愛し、
自分の周りの人間を愛する力を発電していくのだ。


 ここは、地獄にも、天国にもなる。

 地獄のような状況でこそ、
床の雑巾がけを始めてみよう。

 もうダメだ、という、ギリギリで悲痛な夜こそ、
流しを磨いてみよう。

 そうすれば、自分で意識しなくても、
勝手に無心になって、
勝手に慈悲の喜びが発生してくる。

 脳裏にふいに、
長い箸で物が食べられずに悲嘆する自分の姿が
映るかもしれない。



   


 (了)



(話の駄菓子屋) 2012.9.4.あかじそ作