「 知己 」


 己(おのれ)を知る、と書いて、知己。

 自分のことは、自分が一番知っているようでいて、
実は、一番知らなかったりする。

 人は、自分の感じている感覚は、実感できているが、
実は、なぜそういう感覚を抱くのか、
なぜこういう行動をとってしまうのか、
ということについては、
実は、自分が一番気付いていない。

 周りの人間の方が、よほどよく知っている。

 たとえば、予定通りきっちりやりたい人は、
予定外の事が起こると、
周りの人間について、
「何でお前ら、こんな大変な時にノンキに構えているんだ!!」
「お前ら、おかしいんじゃないか!?」
と、腹が立つものだが、
実は、おかしいのは自分の方で、
【想定外の事に対して異常にストレスを感じ、大パニックを起こしてしまうヤツ】
それが、自分なのだと、気付いた方がいい。

 また、いつも熱い想いを抱いている人は、
「こんなにこんなに自分は命がけで想っているのに、
何でお前らわかってくれないんだ!?」
「お前ら、おかしいんじゃないか!?」
と、周りの人間のテンションの低さに怒るが、
実は、おかしいのは自分の方で、
【主観的で、感情的で、一方的な物の見方しかできないヤツ】
それが、自分なのだと、気付いた方がいい。

 周りがおかしいんじゃない。

 実は、自分の「くせ」が、そう思わせているのだ。

 ストレスは、実は、他人が持ちこんでくるものなんかじゃない。

 実は、自分の受け止め方のくせ、対応のくせが、
ストレスを生んでいるのだ。

 同じ出来事が起こっても、
人によって、ダメージが違うのは、
そういうことだ。

 今まで、
「自分は、人一倍感受性が強く、傷つきやすく、ピュアなのだ」
と思い込んでいた私は、
最近・・・・・・本当に、ごく最近、
「いや待てよ、そうじゃない」
と気付いた。

 自分ってやつが、人並以上に、
「他人から良く思われたい」
と願っているヤツなのだ、ということに気付いたのだ。

 極論してしまえば、
自分自身が良く思われるためならば、
自分の意見も捨てるし、利益が少なくなってもいいし、
怪我をしてもいいし、へたすりゃ、死んでもいいと思っている。

 自分のことを良く思われたい、と思うことは、
誰にでもあることだし、
人々にその感情が無くなってしまったら、
正常な社会が成り立たなくなってしまうのだが、
私の場合は、その気持ちが強すぎる気がする。

 原因は、簡単に言えば、
【幼少時、常にいい子でいなければ、パパとママにブッ飛ばされた】
ということだが、問題なのは、原因じゃない。

 大人になっても、
この【ブッ飛ばされる】恐怖におびえ続けている、ということだ。

 両親も70歳を超えて、もう、私をブッ飛ばさない。

 なのに私は、46歳になった今でも、
【いい子じゃないと殺される】と、
いまだに命の危険を感じ続けていた。

 殺されないために必死に【いい人】を演じ続けている。

 【いい人】じゃないと、即、死んでしまう、と信じている。

 死にたくないから、
【いい人】であり続けなければならず、
そのために、
嘘もつくし、
やりたいことも我慢するし、
言いたいことも言わない。

 【いい人】であり続けることで、
やっと自分は、生きることを許されているのだ、と思っている。

 (そのくせ、【いい人】存続のために、死んでもいいと思っているのだ!)

 しかし、さすがにもう、無理が生じてきている。

 自分の抱える矛盾を、ごまかしきれなくなっている。

 基本的に、私は、善人だ。

 悪いことはできないし、困っている人は見殺しにできない。

 しかし、どんなに一生懸命に善行をしようとしていても、
仕事でミスをして、人様に迷惑をかけることもある。

 ちょっと口を滑らせて、人を傷つけてしまうこともある。

 悪気は無くても、人に迷惑をかける時もある。
 それは、誰にでもあることだ。

 しかし、その、「人に迷惑をかける」ことが我慢できない。

 「人に迷惑をかけた」→「いい人じゃない」→「生きる価値無し」
と、一瞬にして自分の中で決めてしまう。

 だから、もう、いつもいつも必死なのだ。

 ノーミスしか許されぬ人生に、
ひーひーひーひー言っているのだ。

 「すみまっせん」「すみまっせん」
「ありがとうございます」「ありがとうございます」
「助かります」「助かります」
と、頭下げまくりの毎日を送っている。

 いつからこんなに自分は、
【媚び、へつらい】の人間になってしまったのか?

 私は、もはや、【いい人】なんかじゃない。
 私は、ただの、【卑屈なおばはん】だ。



 先日、退職した元上司の女性と話す機会があった。

 彼女は、私に言った。

 「あかじそさん、最近、辞めた人の分の配達エリア引き継いだでしょ?
 誤配もクレームもほとんど無いし、土日祝日も全部出てくれてるよね?
 この10月で5年目に入るし、これを機会に単価を上げてもらったらどうかしら」

 「まあ、単価が上がれば助かりますけど、それ、自分で会社に交渉するんですか?」

 「うん・・・・・・私退職したから、進言できる立場にないし・・・・・・
 でも、単価を上げる基準を満たしてるから、ダメ元で相談してごらん。
 言いづらいかもしれないけど、自己申告しないと、誰も言ってくれないでしょう?」

 「はあ・・・・・・」

 彼女は、退職後も、
親身になって私の報酬の内容まで心配してくれていた。

 熱心に、単価の交渉をするように熱弁をふるってくれた。

 私としては、
「自分で自分の仕事を評価し、給料の値上げを要求する」
という行為など、考えたこともなかった。

 しかし、尊敬する彼女が、
私の事を想って、一生懸命に、
私に「値上げ交渉をしろ」と言う。

 私は、だいぶ葛藤した。

 「ずうずうしく賃上げ交渉する下請けおばさん」は、
私の設定する「いい人」の基準から外れる。

 しかし、心から尊敬する元上司の女性は、
「自分の仕事に見合った報酬を、堂々と主張しなさい」と言う。

 「ずうずうしい人」になりたくない。

 でも、元上司のアドバイスには、素直に従いたい。

 もはや、賃金の額なんて、どうでもいい!

 単価上げろ、と言うのか?
 言わないのか?!

 さあ、どうする?!
 どうする、私?!
 

 かくして、私は、詳細な台本を書き、交渉に挑んだ。

 さりげない導入→「わたくし、最近エリアが増えまして・・・・・・」
 
 謙虚な切り出し→「さる人に、単価の交渉を勧められまして・・・・・・」

 されど主張すべきは主張し→「3人分のエリアを担当して、就業当時の単価のままなので・・・・・・」

 引き際は、あくまで潔く→「すみませんが、よろしくお願いします」


 電話を切った。

 言えた・・・・・・。
 言うべきことを、厚顔無恥で・・・・・・。

 もう、私は、(自分の設定した)【いい人】では、ない。

 【いい人】では、なくなったけれど、
【言いたいことを言える人】になった。

 会社の人には、「ずうずうしい下請けおばはんだな」と
思われたかもしれないが、
自分で自分の事を、こう思うことができた。

 【できないことができた人】だと。


 もう、単価のアップなんて、どうでもいい。

 私は、己を知った。

 【人目ばかり気にする、言いたいことも言えないヘタレおばはん】

 これが、今までの私だった。

 しかし、私は、一歩だけ、そこを抜けだした。

 人からどう思われるかだけにとらわれて、
言いたいことも言えない、やりたいこともできない、
卑屈で、空っぽな人生を送る人・・・・・・

 そういう人でいることを、
自分で卒業しようとしている。


 また元上司に感謝することが増えてしまった。

 彼女は、私の「知己」にとどめをさし、
「頭でわかっているなら、行動を起こしなさい」
と、背中を押してくれた。


 今まで私を苦しめてきたことは、
一体、何だったのか?

 【いい人】と思われるために、
捨ててきたプライド、
あきらめた夢、
言えなかった言葉。

 確かに失った物は多いが、
今、それらを失ったことに気付き、
「もう一度取り戻していこう」
「今、ここから生き直しててみよう」
と、奮い立った意義はデカイ。



 知己ってスゲエ。


 (了)



(話の駄菓子屋)2012.9.18.あかじそ作