「 おくるみとチャリンコと鉄棒と 」 |
精神的に疲れてしまった時、 考え過ぎて頭がパンクした時、 孤独で胸が潰れてしまいそうな時、 何も言わずに抱きしめてくれるのは、 いつも「歌」だった。 子供のころに母が歌ってくれた童謡や、 懐メロでも流行りの歌謡曲でもいい。 友だちの歌うカンテもそうだ。 理屈で自分を慰めることには、限界があるけれど、 歌はいつも、理屈抜きで私を抱きしめてくれる。 歌には、体温がある。 人が歌うと、 人の温かい(または熱い)息吹がこちらに吹いてきて、 死にかけた心に、魂を再び呼び戻してくれる。 自分が歌うと、 自分の中の濁りが吹き出て行って、 歌えば歌うほど、新しい細胞に交換されるような気がする。 「リフレッシュ」なんて軽いもんじゃない。 本当に、激しく、目に見えて細胞が活性化するのだ。 倒れて突っ伏すことしかできない時に、 黙って歩み寄り、 息を吹き返すまで抱きしめていてくれる。 歌は、私のおくるみだ。 同様に、 精神的に疲れてしまった時、 考え過ぎて頭がパンクした時、 孤独で胸が潰れてしまいそうな時、 突如騒がしく現れて私を担ぎあげ、 わっしょいわっしょいと、 お祭り会場に連れて行ってくれるのは、 いつも「笑い」だ。 馬鹿笑いすれば、ハタ、と、目が覚める。 くそまじめに考え過ぎて、 視野が極端に狭くなっている自分に気付く。 ナンセンスがいい。 むしろ、意味なんて要らない。 意味の無いことの意義深さ。 これが肝心なのだ。 難しい社会派の問題作も、 シビアな文学作品も、 まったく歯が立たない物凄い至高の何かが、 笑いの中には、ある。 笑いが免疫力を上げるのは、 科学的にもわかってきているし、 これもまた、細胞を激しく活性化するのだ。 自動車でも新幹線でもなく、 【人力】の「笑い」というパワーが、、 心の中のペダルをグイグイ漕いで、 明るい「となり街」へと連れて行ってくれる。 笑いは、私の自転車だ。 そしてまた、 精神的に疲れてしまった時、 考え過ぎて頭がパンクした時、 孤独で胸が潰れてしまいそうな時、 ふっと私の生活を一転させ、 回転舞台のように今までの世界を変えてしまうのは、 いつも本や映画や芝居だった。 日常から一気に離脱して、 瞬時に違う世界に逃げ込める。 あんなにも、 「ああ〜〜〜あ、いやだ、いやだ!!」 と、うんざりしていた日常が、 いったんその世界(本や映画や芝居)に行き、 また戻ってくると、 いとしい舞台装置のように思えてくるのが不思議だ。 逼迫した状況の日常が、 非日常からの回帰により、 意図的に演出された【日常】という名の 「シチュエーションドラマ」のようにも感じられてくるのだ。 本や映画や芝居は、私の反転装置、 ・・・・・・そうだ、鉄棒だ。 毎日、生きてりゃあ、 嫌なこともありゃあ、 どうにもこうにも耐えがたいこともある。 それでも何とか生きていかにゃあ、ならんのだ! 生ある限り。 私には、 おくるみとチャリンコと鉄棒という、 三種の神器があるじゃないか。 だからもう、怖くなんかない。 前向いて、胸張って、腕を大きく振りながら、 歩こう! 生きて行こう!! (了) |
(しその草いきれ)2012.10.30.あかじそ作 |