役満ねらい


 私は、毎日、家事のあい間に、麻雀と花札のゲームをやっている。
 そこで、私は、自分の勝負の仕方について、
あるひとつの発見をした。
 私は、せこい手では、絶対に上がりたくない、と、いつも思っている。
上がるなら、役満じゃなきゃ話にならん、と思っている。
 派手で、大きな手じゃなきゃ、勝ったって面白くない、意味がない、と、
思っているふしがある。
 たとえ、あと数手で、安めの手で上がれる、としても、
あえてその手を崩してまで、大きい勝負に出ようとしてしまう。
 どんな牌が回って来てもいいように、あらゆるケースを想定して、
「広い待ち」をしているのが、勝つコツだ、と、夫は言うが、
私は、そんなのつまんねえよ、と思ってしまうのだ。
 
 ドカンと、大きな手で上がる、というのは、
腕だけでなく、運も大きく関わってくる為に、
そうそう簡単にできることではない。
 だから、私の勝負は、いつも惨敗に終わる。
 たまに、負けが続くストレスに耐えかねて、
上がりやすい、安めの手で上がってみるが、
いくら大もうけしたところで、ちっとも心が満たされないのだ。
 拾って拾って、せこく勝って、小さな幸せを掴むことを、
私は、ちっとも楽しいと思えないのだ。
 チーとかポンとか、人の捨てたものを拾いあさって、
チマチマした勝ちを得ることは、惨敗するより、惨めに思う。
 
 まさに、この勝負の姿勢が、私の人生観なのかもしれない。
「小さな幸せを大切に」と、自分で自分に言い聞かせているけれど、
本当は、「惨敗覚悟の大勝負」を狙っているのではないだろうか。
 
 「ひとつひとつの積み重ね」を、毎日地道にやっている、
鎖につながれた自分を、もうひとりの勝負師の自分が、
軽蔑しながら眺めているような気がしてならない。

 麻雀で私が勝てないのは、もうひとつ理由がある。 
自分の牌だけしか見ていなくて、人の捨て牌から、相手の手を推察したり、
自分の待つ牌が回って来る確率を予測したり、という地道な作業をしないから
だ。
 客観的に、統計的に、自分の勝算をはじき出したり、
柔軟に手を変更したり、そういう勝つために必要な計算をしないところなの
だ。

「あの役で勝つ!」
このことしか頭にない。
 
 したがって、いまだ、人生においても惨敗続きだが、
せこい手で勝ち続けるよりは、よっぽどマシだと、
負け惜しみでなく、思う。

 そんなヤクザな価値観で生きる妻、そして母に、
果たして家族は、どんなトバッチリを食らっているのだろう。
 いつも、ほのぼのした状況に舌打ちをして、
「で・・・・・・、そこにあんたの魂は、あるのかい!」
と、据わった目で凄む妻、あるいは、母に、
家族は、心解きほぐすことなどできるはずもなく、
いつもビクビク怯えている。

 困った女だ。

 しかし、その困った女は、思うのだ。

 「優しい」とか、「和む」とか、そんなことは、後から付いてくる。
その前に、あんたの魂は、いつもいつでも、ここにあるのか!
 それが問いたい!
 
 目の前にいる人に、ウワノソラで受け答えをしてはいないか?
 目の前の仕事を、ココロ・ココニアラズで、やっつけていないか?
 
 いつも、いつでも、テメエの魂の入った仕事をしやがれ、こんちきしょうめ!

・・・・・・と、そこを、問うているのだ!

 ウワッスベリした、ライトタッチな人生なんて、
この妻は、この母は、認めない!

 ―――って、こんな女、イヤだろうなあ、とは思う。
私だったら、逃げ出すだろう。
 力、入りすぎなんだよ、と思う。
 だから、勝てないんだよ、と思う。

 しかし、燃えずには、いられない。
損得抜きで、後先考えず、全力を注がずには、いられない。
 喜怒哀楽の、全ふり幅を行使して、
「ひゃっほー!」「ンガ〜!」「ひーん!」「わーいわーい!」
と、飛んだリ跳ねたり、うずくまったり、ひっくり返ったりしながら、
持てる全ての激情を、ほとばしらずには、いられない。

「感情的」と、人は言う。
「むらっ気」と、みな顔をそむける。
それで結構。
 私には、それしかできないのだ。
「冷静」で「平穏」で、「無事」で「無難」なんて、
ぬるい風呂みたいで、入っちゃいらんないのだ。

 心はいつも、
「リーリーリーリーリーリーリーリー!」
と、カニのように1塁ベースから、じりじりじりじり、行ったり来たり、
落ち着きなく右往左往している。
 
 私の人生、阪神タイガース・・・・・・
優勝は、いつになるのだろうか?!
 全然、わからない。


                 (おわり)
 2002.03.10 作 あかじそ