「 過剰適応 」



 過剰適応で生きてきて40年。

 そろそろこの生き方を卒業したいと思っている。

 社会性協調性を一番に考え過ぎて、
自分を抑えつけてきたが、
みんなに「いい人」と思われたところで、
たいしていいことなどなかった。

 それどころか、
「いい人かもしれないけど、何を考えているのかわからない」
「体裁を完璧に整えて、決して人に本心を見せない」
という印象を持たれ、
【敵も攻め込んでこられないけれど、味方も作れない】
という状況に陥っている。

 孤独だ。

 弱い自分、自己中の自分が世に受け入れられるはずなど無く、
それでも生きていかねばならないのなら、
自分を殺し、社会に媚びへつらって生きていくしかない、
と思っていたが、
それもまた、自分の心身に不調を生みだし、
生きにくくなってきている。

 無理が祟って、もう、燃え尽き症候群も何周目なんだか。

 過剰適応→燃え尽きる→うつ状態→長いトンネル
→立ち直る→過剰適応→燃え尽きる→うつ状態→長いトンネル→・・・・・・

 ん〜〜〜〜〜、エンドレス!

 この負のスパイラルを脱せよ! あたし!!!


 大体、なぜ過剰適応になったかというと、
もともと自己中で空気の読めぬ、マイペース過ぎた私が、
親にボコられ、友人にボコられ、クラスでボコられ、
バイト先でボコられ、就職先でボコられて、
ボコられ過ぎて、もう、身も心も、
痛いのが嫌になっちゃったからなのだ。

 自分らしくしていたら、必ずボコられる。
 必ボコだ。

 どこに行っても、誰に会っても、
自分が楽な状態で関わっていると、
相手が不快になってしまう。

 多分、私は、
人の話もろくに聞かずに自分のことばかり話し、
威張りん坊で、言いたいことを言い放ち、
社交辞令のほめ言葉を言ったり、
相手に調子を合わせたりしなかった。

 子供だった。

 私が、私が、私が、という子供だったのだろう。

 だから、自己中だと思われてしまったけれど、
人は好きだった。

 凄い人に対しては、
やきもちひとつ焼かずに、
「凄いね」と尊敬の念を込めて言ったし、
落ち込んでいる人には、
そっと寄り添って、黙ってそばに居た。

 だから、いつもちゃんと親友は、いたのだ。

 しかし、なぜか、その親友たちは、
自分が困った時だけ私にすり寄ってきて、
私が困っているときは、めんどくさそうに逃げていった。

 本当の親友では、なかったのかもしれない。

 だんだん人が好きでなくなってきた。

 人間不信に陥っていった。

 そもそも、親も信じていなかった。
 今も、私は、親に心を開いていない。

 夫は、信じるたびに必ず裏切るし、
自分自身は、一番信じられない存在だ。

 でも、なぜか、自分の子供は、信じられる。

 彼らとは、心の奥からつながっているのを感じる。
 根っこが同じ所から生えているのがわかる。


 でも、なんか暗い!
 暗いぜ、あたしの、この人生。

 もっと明るく、楽しく生きたい。

 今生を、今から方向転換していきたい。

 ちゃんと信じられる存在があるのだから、
これを心の基地として、
もっと自分を解放し、
楽に生きていけばいいじゃないか。

 誰も私を陥れようとなんてしない。
 そんな暇なヤツは、いない。

 誰も私を追い詰めない。
 みんな忙しいのだ。それどころじゃない。

 適応できなかった自分が、今や過剰適応。

 0か100か、それしかできてない。

 自分出し率、20とか、50とか、70とか、
そういうボリューム操作がそろそろできてもいい歳なんじゃないか?

 それくらいの経験は積んできたんじゃないの?

 そもそも何にそんなに適応しようとしているの?

 今いる場所の、その空気が、
必ずしも満点とは限らないじゃないか。

 100人が集う会議室で、
自分以外の99人が間違っているかもしれないよ。

 ぶれるな、私!

 自分の価値観、自分の目盛りを、間違えるな!

 過剰適応は、今日でおしまい!

 明日からは、フラットな気分で、毎日を生きるのだ。

 もう、人生の半分以上を生きたんだからね。
 研修期間は、もう終わり!

 人生、本採用。

 自分の仕事を、自分のやり方でやるんだ、おい!



    (了)


(話の駄菓子屋)2013.2.12.あかじそ作