「 もう2年 」



 震災から2年経った。

 テレビでは、
被災地の復興に頑張るひとたちと、
少しづつきれいになっていく街が伝えられる一方で、
置き去りにされている人たち、
手つかずで放置されている場所もたくさん映されていた。

 いまだに津波の映像が流れると、
胸が潰れそうになる。

 あの凶暴な大渦の中に、
小さな子供たちが、
優しいじいちゃんばあちゃんが、
家庭を支える父さん母さんが、
未来ある若者たちが、
今まさに飲み込まれているのかと思うと、
何度同じ映像を見ても、
いたたまれない気持ちが風化することはない。


 東北だけでなく、
私の住む関東も、多少の痛手を負った。

 不況に拍車がかかった。

 夫は、パソコンを教える仕事をしているのだが、
「こんなときに習いごとなど不謹慎だ」
と、一気に生徒さんがやめてしまい、
また、震災後の経済的なダメージから、
やはり、何人ものの生徒さんがやめていった。

 結果、この2年間、
収入が月に10万円減った。

 私も、配達の仕事で、
エリアを増やして朝から晩まで必死に働いているけれど、
やはり、その穴を埋めることができず、
5人の子供たちが教育に一番お金の掛かるこの時期、
爪に火をともすように節約しても、
どうにもこうにも回らない日々が続いている。

 弟の店は、つぶれた。
 弟とその奥さんは、新しい仕事を掛け持ちして、
実家から借りた金を月々5万づつ返している。

 みんな苦しい。

 でも、
家族を失い、
家や仕事を失った被災地の人たちを思ったら、
弱音など吐けない。

 自然を前にして、
家族全員が今日一日無事生き伸びたことだけでも幸せなことなのだ。


 2年前、長男の高校の卒業式は、
震災の影響で延期に次ぐ延期で、
何でもない平日に略式で行われ、
相次ぐ余震の中、
銀行に長男名義の口座を開設に行き、
新しい家財道具を買いに回り、
地震のどさくさの中、北関東の大学の寮へ、
長男は、引っ越していった。

 あれから2年。

 今、私は、
高校を卒業する次男の進学のために、
次男名義の銀行口座を開設に行き、
市役所に住民票を取り寄せに行って、
入学手続きや、奨学金の手続きに走り回る。

 生活の苦しい中でも、
子供たちは、着々と成長し、
進学し、大人になってゆく。

 親は、身を粉にして、
ひたすら労働労働の日々だ。



 14時46分に、黙とうをした。

 日本中のたくさんの人が、やはり黙とうしただろう。

 哀しみを無理矢理忘れる必要は無い。
 哀しみ続けたっていいじゃないか。

 死んではいけない人が死んだことを、
哀しんで、悔しがって、
毎日泣いていてもいいと思う。

 でも、きっと、死んだ人たちは、
天国から我々を見下ろして、
「私のために、そんなに悲しまないで」
「私の存在を、暗い想い出にしないで」
と言っているだろうから、
彼、彼女を愛するのなら、
時には、元気に笑ってみせてあげようじゃないか。

 「可哀想なあの人」ではなく、
「大好きなあの人」として、
明るい顔で思い出そうよ。

 供養のため、
あの人の愛に応えるために、
生き残った我々は、
哀しいけれど、時々は、笑おう。

 そして、生きていくのだ。

 すごくすごく、つらいけれど、
しぶとく生きて、生き続けて、
死ぬまでねばり強く生きていこう。

 もし逆に、
自分が死んで、あの人が生き残り、
優しいあの人が、
この自分を悼んで悲壮な日々を送っていたとしたら、
死んだ自分は、どんなに気がかりか。

 あの人がのたうちまわって苦しむ日々を送るくらいなら、
自分が代わって苦しんであげよう、と、
そう思うことはできないだろうか。


 また会えるから。

 きっと、また、あの人に会える日が来て、
「苦しかったけど、淋しかったけど、頑張って生きてみたよ」と、
堂々と報告できるように、
一日一日、一歩一歩、生きていこう。


 今日できること、
今できることを、
一個づつ、一個づつ。



 (了)


(しその草いきれ) 2013.3.12.あかじそ作