「満州引き上げの話」
 夫の母は、小学校の低学年のころ、つまり、第2次世界大戦中、
両親に連れられて、満州で暮らしていた。
彼女には、織物事業を起こして、たくさんの現地の人を雇う父と、母、
年頃のお姉さんふたりと、小さい妹と、生まれたばかりの弟がいた。
 続けて4人、女の子が生まれた後の、悲願の男の子だっただけに、
父親の末っ子を可愛がりようは、周囲が固まるほどだったという。
 5人兄弟の真ん中の彼女が、小学3年生の時、日本は、戦争に負けた。
すると、今まで使用人だった満州の人たちが、今度は、暴徒と化す。
 自分たちの国を侵略してきた鬼畜日本人をぶっ殺せ、ということになる。
 家族は、ほかの日本人たちと共に、山の中を昼夜逃げまくった。
昼は、食べ物などを売りに来ていた現地の商人が、夜には、家族を襲撃してきた。

 ろくな食べ物も摂れず、逃げ惑う毎日に、病弱な長女と末の弟が、病気になってしまった。
荷物すべてを父親が背負い、歩けなくなってしまった17、8の姉を、
自らも足が腐り始めた母が背負い、弟を、中学生の姉が背負って、
連日、ひたすら人目を忍んで、歩いて逃げた。

 そのうち、姉がとうとう、亡くなってしまった。
なきがらは、あまりにも重く、他の家族が生き延びる為には、その場に置いていくしかなかった。
 山の中の目立たぬ場所に、泣きながらみんなで穴を掘り、みんなのお姉ちゃんを、そこに埋めた。

 ただ、歩くしかなかった。
いつ満人に殺されてもおかしくないような情勢の中、
ただただ、幼な子連れの家族は、歩いた。
 ついこの間まで、何人もの召使いに囲まれて暮らしていたこの家族は、
今は、ただ、生きるため、そのためだけに、泥まみれで歩いている。
 
 歩いているうちに、末の1歳の弟が、家族の悲願も届かず、
ついに息を引き取ってしまった。
いつも気丈で、頼りがいのある父が、「ああ!」と大きく叫んだ。
 冷たくなっていく、まだぬくもりの残る、小さな小さな、
たったひとりの息子を何度も何度も抱きしめて、天を仰ぎ、地を叩いて泣いた。
 家族は、これ以上ないほどの絶望の底に叩き落され、言語を失い、
ただただ、ケダモノのように泣き喚いた。
 希望という名の小さな命が、今、終わってしまったのだ。

 その後、日本に引き上げ、故郷の金沢に戻っても、
父の心は、子供たちを置いてきた、あの山の中にあった。
「いつか、日本に必ず連れ帰ってくる」
と言いつつ、それが国の事情でかなわなくとも、亡くなるまで決してあきらめていなかった、という。

 夫の母は、このことを、今でも、昨日の事のように思い出す、と言う。
私も、この話を聞くたびに、ひとりの子を持つ母として、
リアルすぎる「子供の死」というショックに、一緒になって打ちのめされてしまうのだ。

2002.03.13 作 あかじそ