「 災害時の生活とスローライフについて 」 |
自然災害などがあった時、 電気やガスが止まり、水道が出なくなり、 ガソリンが手に入りにくくなる。 店頭からは、すぐに食料品は無くなり、 急いで買いに走っても、手に入らなくなる。 すべてのライフラインが無意識のうちに使われ、 24時間、いつでもどこでも、物が大量に売られている、 そんな状況が当たり前になっている日常を過ごすうち、 ひとはみな、生物として一番大事なものを 奪われてしまっているような気がする。 夏は暑く、冬は寒い。 最近の暑さも寒さも、殺人的になっているのに、 エアコンを使えば、つまり、電気さえ使えば、 それは、さも解決されるかのように思われている。 これを逆に考えると、 「電気が無くなってしまったら、私たち人間は、 殺人的な暑さ寒さから身を守るすべを何も持っていない」 と、いうことになる。 これが怖いのだ。 災害時に、電気を失って初めて、 「暑いよ~!」「寒いよ~!」「誰か助けて~!」 となる。 そりゃあ、暑いよ! 家でじっとしてても人が死ぬくらいの暑さだもん。 そりゃあ、寒いよ! 生き物は、寒すぎたら死ぬんだからね。 そんなのみんな、よ~く知ってるくせに、 無意識に電化製品に依存しているから、 その危機的状況に気付けない。 別に、電気を一切使わないで過ごそう、と言っているのではなく、 「無意識に電気に依存している」のをやめなくちゃ、と思うのだ。 「電気に依存しないと生きにくい」ということを強く意識しよう、 「電気が使えない時は、こうやってしのごう」という手立てを持とう、 と、いうことだ。 時代を逆行しようというのではなく、 時代が進んで、技術が進んだからこそ、 夏は暑く、冬が寒く、雨が冷たく、風が厳しい、という、 「変わらぬ事実」を忘れてはいけない、と思う。 進化した便利な道具を使うのは、いい。 でも、「依存」は、よくない。 人が道具に依存しているということは、 人が道具の手先になり下がっているのと同じだ。 道具を使っているのではなく、 道具に使われているのだ。 電気をのべつまくなしに使わないと生きていけないのは、 生物としての本能を失ってしまうと思う。 何でもすぐに調べられるから、と言って、 スマホを片手に、本を読まなくなるのは、 種を持ち、広大な畑地を目の前にして、鍬を握らず、 飢え死にするようなものだ。 生き物としての生命力を失ってしまう。 人は、みな、 本来生きる力を持ち、 生き抜く知恵も持っているはずなのに、 便利な道具を手にしてしまったことで、 時代が進むとともに、退化しつつある。 育つはずの能力を、 大枚はたいて捨てているような気がする。 私は、この5年、 野外で仕事をしてきたので、 このことが、実感としてよくわかるようになった。 長く雨に打たれ、雪をかき分けて歩き、 炎天下に走り回り、暴風雨に吹き飛ばされて、 やっと気付いた。 家は、シェルターだ。 外は、自然と、そして、死と、隣り合わせだ。 流行りものの「エコロジー」を声高に叫ぶわけではないけれど、 暑くないように、寒くないように、死なないように、 自然に逆らうのではなく、 自然にそった暮らしを、 スイッチ一つでは無く、手作りで、 ひとつひとつ、備蓄していこうじゃないか。 普段からこういうスローライフを心がけていれば、 きっと、災害時にも、 今までみたいなギャップで苦しむこともないだろう。 自然災害は、 人間にとっては、災難だけれども、 神様にとったら「自然現象の激しめなヤツ」でしかない。 だから、我々無力な生物、ホモサピエンス・ヒトは、 自然にあらがわないで、工夫して生きて行こう。 頭は、いいんだから、ヒトは。 ヒト同士で殺し合ったり、 物や道具に人生を乗っ取られたり、 そういうバカみたいなことをとっととやめて、 本来の「利発な生物」になろうよ。 とりあえず、ヒト47歳、メスの私は、 巣や子を守るために、まず、 アウトドア用品を買い、 食料品を備蓄しようと思う。 そして、以下のことを楽しんでいく。 夏は、雨水を溜めて朝晩庭に打ち水し、 窓の前には、つる性の植物を植えてグリーンカーテンを作る。 昼は、行水して上がり過ぎた体温を下げる。 冬は、どてらを着て、こたつに入り、 鍋をつついたり、温かい飲み物を飲む。 火鉢にやかんを乗せて湯を沸かしたり、 海苔をあぶったり、餅を焼いたりし、 安い時にまとめ買いした野菜や魚を干して干物を作ったり、 庭先にしゃがんで七輪でサンマを焼いたり、 家族でこたつを囲んで果物を食べたり、 笑ったり、叱ったり、励ましたりする。 豪雨の中帰宅した子の頭に、 バスタオルを掛けてゴシゴシしてやったり、 週末持ち帰った上履きを、 外の水道で、母娘並んでキャッキャ言いながら洗ったり、 夜具をのべる際、平織りシーツを子供と一緒に 「いっせーの、せ!」で布団に掛けたりして、 【暮らし】そのものを愛して生きていく。 スローライフは、【不便】を【娯楽】にする暮らし。 不便だからこそ、 生活の中の行為、一個一個が【動詞】になる。 生きている手触りが実感できる。 こんなエクスタシーどこにある! ここだ!!! (了) |
(話の駄菓子屋)2013.10.8.あかじそ作 |