「 そろそろ人生のテーマを決めよう 」 |
「自分には、これしかない!」 と、生まれた時から、 好きなことややりたいことが一個に決まっている人は、 選択する苦しさを免れているという点で、幸福だと思う。 「やるしかない!」 その、一本道だ。 しかし、ほとんどの人が、 「何をしたらいいんだろう?」 というところから始まるから、 数限りない選択肢の中から選ぶ苦労がある。 とうとう最後まで選べずに、 流されるままに生きて、 そして、死んでいった人がどれだけ多いか。 「俺は、こういう風に生きる!」 と決めて、一直線にそれに挑み、 貫き通せた人は、幸福。 貫き通せなかったとしても、 自分自身で道を決められた、ということで、 それはそれで幸福。 挑んだものの、挫折した、 これもまた、幸福だ。 目指すべきゴール地点が見えれば、 視線を上げて生きていける。 「この道!」 と、はっきりと公言できないまでも、 歩いてゆく方向だけでも決めないと、 人間、動きがとれないと思うのだが、 これがまた、決めあぐねている人がなんと多いことか。 私もその一人だ。 そのときそのとき、 周りの人間がぞろぞろ歩いてゆく方角に、 つられて歩いて行くうちに、 流れの滞る場所に流れ着き、腰をおろし、 相変わらず、 自分がどうしたいのか、どこに行きたいのか、 全然わからないまま、ただ、ぼんやり生きている。 行かなきゃいけないというから、学校に行き、 みんなが就職するから就職し、 結婚した方がいいみたいだから、結婚し、 結婚したから子供を産んで、 その子に兄弟を作ろうと次を産んで、 女の子が欲しくてどんどん産んだら、 四男一女の母親になっていた。 彼らを育てないといけないから育て、 お金が掛かるから仕事して、 いつも腹減った腹減った言われるからご飯を作り、 汚れものがどんどん出るから、 洗い物を毎日繰り返す。 「あり?」 知らないうちにここまできたけれど、 人生の岐路に立つたびに、 いちいち選択してきた、という意識が薄い。 確かに、一時、 「子供をたくさん持つ」 という強い方向性を決めたことは、あった。 そして、その落とし前をとる、という形で、 毎日必死に労働しまくる、という毎日を送っている。 向かうべき方向は、確かにぼんやりとは決まっていた。 子供をたくさん育てて、 「カーチャン」と呼ばれる道を選び、 自分のやりたいことよりも、子育てを優先することを。 しかし、その子供たちに手が掛からなくなってくると、 「あれ? 後回しにしていた【自分のやりたいこと】って何なんだ?」 と、ポカンとなる。 子育てを言い訳にして、 大切なことを怠けていたのに気付く。 子供のせいにして、 人生について真剣に考えるのをサボっていた。 考えることを後回しにしているうちに、 子供たちは、私の人生からパラパラパラと離れていき、 後には、保留にしていた課題が、 ガランとした広間の床に、そのまま転がっていた。 「あれ? 私の生きる道とは?」 「どこに向かって歩けばいいんだい?!」 そうか。 いよいよ自らの意思で自分のテーマを決める時がきたのか。 生きる道、なんておおげさなものではなく、 「これが好き!」というものを自覚して、 そっちに向かって歩いていこうじゃないか。 物事を、 値段じゃなく、 流行でもなく、 自分の意思で、 決めようじゃないか! 明日死んでも悔いの残らぬように。 (了) |
(話の駄菓子屋)2013.11.26.あかじそ作 |