「ドーナツ事件」
 

もう、アッケにとられて、何にも言葉がでなくなってしまったことがあった。
先週のことだ。
 母と一緒に、自転車で少し遠くのホームセンターへ出かけようとしていたら、
出かけようとする私たちに、父が玄関から飛び出してきて、
「ミスタードーナツ行くのかな・・・・・・」
と、めちゃくちゃ大きな声で【つぶやいて】いた。

 父は酒飲みだが、時々、幼児のように甘いものをむさぼり食う。
この間も、ミスタードーナツの半額フェアで買ったドーナツを、
孫の手から奪い取って食べてしまったくらいの意地汚さなのだ。
 その半額フェアでは、「エンゼルなんとか」などのねじれ系が半額になっており、
母が、孫たちにオヤツにあげようと、20個も買い込んだのだった。
「わーい、たくさん食べよう!」
と、はしゃぐ幼な子たちの頭を、父は、次々小突いて、
「そんなにいっぱい食って、人の分のことまで考えてるんだろうなあ!」
と、すごいハイテンションで怒り、鬼の形相で睨みつけていた。
 
 要するに、
【俺の稼いだ金で買ったドーナツなんだから、
俺が一番いっぱい食べなきゃ、いやだからねーっ!】
と、いうことなのだ。

 なにをドーナツひとつで、幼児たちに脅迫してやがるんだ、
と、母と私は、黙殺していたが、そのとき食べた、
チョコのディップしてあるドーナツがえらく気に入ったらしい。
 そして、母が買い物に出かけようとするたびに、
「ミスタードーナツ行くか?」
と、聞くようになったという。
 母が、
「なにあんた、ドーナツに、はまったの?」
と、聞くと、
「そんなことあるか! あんなもん、ガキの食うもんじゃねえか!」
と、父は、イライラしながらそっぽを向く。
 (ああ、いらないのね)
と、母が思って、ドーナツを買って帰らないと、
「何だ! ドーナツはどうした! バカじゃねえか、お前は! 間抜け!」
と、ケチョンケチョンに母を罵倒するのだというのだ。

 そして、閉店間際のドーナツ店に、母が駆け込んでドーナツを買いに行き、
小皿に載せて父に出すと、
「こんなあめえもの、食えたもんじゃねえや!」
とか言いながら、2つも3つも立て続けに食べるのだ。

 ある日、父が、台所の戸棚に、お気に入りのドーナツをひとつ、
「夜のお楽しみに」と、とっておいたものを、小1の孫が見つけて、
黙って食べてしまったときは、
「もう二度とうちに来るな! 帰れ帰れ!」
と、半狂乱で追い出した、ということもあった。

 そんな経緯があったので、母と私は、間違いなくドーナツを買って帰るつもりだった。
まったく反対方面への買い物だったのだが、また大騒ぎになるのはマッピラだった。
 一緒に連れて行った2歳の四男が、帰りにぐずってぐずって、
暴れて自転車から落ちそうになりつつも、やっとこさっとこドーナツを買うことができた。

「ただいま〜」 
と、私たちが実家の玄関に入ると、父が待ちかねたように飛び出してきて、
「買って来たか!」
と、仁王立ちである。
「ドーナツ買ったわよ。ほら、どうぞ!」
母は、父の胸にぐいいっ、とドーナツの袋を押し付けて奥へ入っていくと、
直後に父は、その袋を開き、そして、叫んだ。

「なにやってやがんだ! てめえはよぅ!!」
もう、半べそ混じりの絶叫だった。
「こんなもん買ってきやがってよぅ! 穴開いてねえじゃねえかよぅ!」

(は?)

 母と私は、呆然として固まっていると、父は、じりじりしながら、
「これじゃねえじゃねえかよぅ! これじゃあ、ただの子供のドーナツじゃね
えかよぅ!」
と、その袋を台所にぽーん、と投げて、頭を掻き毟った。
「だって、ドーナツでいいんでしょ?」
 母は、全然動じない。
また始まったか、くらいのもんだ。
 しかし、私は、すっかりびびってしまい、
「もしかして、欲しかったのは、あの、ねじれてるチョコの?」
と、恐る恐る聞くと、
「あったりめえじゃねえか! バカヤロウ!」
と、私にまでとばっちりがきた。
「俺は、ドーナツは、あれしか食わない、って何度も言ってるじゃねえかよぅ!」
 私が母を見ると、母は、向こうで小さく
(聞いてない聞いてない)
と、首を横にふった。

「なんでこんなの・・・・・・、こんなの俺、食べられないじゃねえかよぅ!」
と、片足で床をダンダンダンダン踏んで暴れた。
(おおっ、これが「地団駄踏む」というやつか)
と、私が見とれていると、
「俺、あのドーナツ食べられると思ってたのによぅ! 畜生!」
と、今度は、両足揃えてダンダンダンダン、台所の床の上を跳ねた。
「お前がバカなんだよぅ! 俺、ちゃんと言っといたのによぅ! 
言っといたのによう!!」

(アホだ、こいつ)

 これが本当に、40年も(窓際ながらも)一流企業に勤めた還暦の男の姿だろうか?
いや、これこそが、今のヘッポコ日本を作り上げた、
「ニッポンの甘ったれオヤジ」の実態だ!

 私が、しみじみ見ていたら、怒り狂った父は、
「お前なんか、どうしようもねえ!」とか、
「やっぱりお前は、バカな女だよな!」とか、
母への激しい中傷を始めた。
 気の強い母は、ちょっと前なら、
「なんだ、このクソジジイ!」
と、父の首ったまに、回し飛び蹴りのひとつも食らわせたものだが、
怒号を浴びている今の母は、にこにこしながら
「ああ、ごめんごめん」
と、キャベツを刻み始めた。

(あんなにめちゃくちゃな理由で、人格まで攻撃されているのに、
なぜ怒らないのだ、母!)
と、私は、母の異常なまでの平常心に驚き、心底感心した。
 後で、母にそのことを言うと、
「めんどくさいから、何でもハイハイハイって言ってりゃいいのよ」
と、ゲラゲラ笑って言っていた。

 私は、
「はあ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!」
と、最上級の感嘆をした。

 ある意味、父の方が偉大なのだ。

 浅草の街を歩けば、誰もが震えながら道を開けたという、
伝説のスケバンだった母を、菩薩にまで成長させてしまった父の偉大さ。
 その物凄い変わりようは、【化学変化】とも言えるほどだ。
母という物質の化学式を、違う物質に変えてしまった。
 
 そして父は、そんな偉業を成し遂げた自覚もなければ、
自分の突出したワガママの程度についての自覚もない。
 
 私は、呆然としながら自宅へと帰った。
片手には、父がかじって「やっぱりいらねえ!」
と、放り出したドーナツをつまみながら。


                   (おわり)
2002.03.23 作 あかじそ