「 切羽詰まった時にこそ 」 |
結婚して以来、私は、 切羽詰まっていない時があっただろうか? いや、無い無い。 夫があまりにもマイペースで、 周囲の人のペースをぐちゃぐちゃに崩してしまうので、 本来、マイペース気味だった私も、 すっかり心のリズムを狂わされてしまい、 二十数年、ずっとウツ気味だった。 「悔しいけど、女っていうのは、男によって人生変わるよね」 と、誰かが言っていたけれど、 「そんなわけあるかい!」 という思いと、 「確かにそれはある!」 という思いが交錯していた。 夫と暮らすようになってから、 明らかに私の精神状態が悪化したのは明白だが、 それじゃあ、あまりにも、 私の人生が【夫頼み】みたいではないか? 確かに、子供たちを産み、育てている間は、 夫の収入をがっつりアテにして生きていたのだから、 【夫頼み】だったのは、間違いない。 二十年、夫に経済的に依存してきた過去があるが、 夫によって私の精神状態が狂う、というのは、 明らかに【精神的に夫に依存】しているじゃないか? これは、非常に良くないことだと思う。 誰かに依存しているということは、、 「誰かが、私を幸せにしてくれる」 という思いが根底にあるということだ。 買い物依存症とか、ゲーム依存症だとかの方が、 まだマシだと、私は、思う。 自分で自分の人生を仕切っているのだから、 まだいい。 私は、いつもいつでも、 自分の人生を、誰かに仕切ってもらおうとしていたのだ。 「誰かが私を幸福にすべきである」 などという、寒い寒い考えが、心の奥底にあったのだ。 私は、親元にいた頃、 子供を疎んじるわがままな両親のもと、 「この人たちのせいで、酷い目に遭っている」 と、思っていたが、 これは、親に依存していたからこそ出た発想だ。 「親っていうものは、子供のために命がけで自分を犠牲にしてまで頑張るものだ」 という、勝手な思い込みがあったから、 そういうタイプじゃない両親に腹が立った。 しかし、両親は、子供に尽くすタイプではないが、 一応、めちゃくちゃながらも子供を育てたのだ。 形式上は、ちゃんと子育てをしている。 上等だ。 同じように、今、私は、 「夫というものは、家族を大切にするものだ」 という勝手な思い込みをしているのだろう。 そして、夫もまた、 そういうタイプでは、ない。 誰かにどうこうしてもらおうという考えが、 ちょっとでも心の中に存在していたら、 きっと、その人は、幸福にはなれない。 自分を幸福にできる者は、自分自身だけだ。 家族に振り回されることを、 「面倒だ」と感じるか、 「幸福だ」と感じるかは、 自分の考え方ひとつだ。 「自分を幸福にするもの」は、 生まれた時から、死ぬ瞬間まで、ずっと、 「自分の考え方」だけなのだ。 誰と暮らそうが、富もうが貧しかろうが、 ラッキーだろうが、アンラッキーだろうが、 全然関係無い。 どの環境におかれても、同じことだ。 「考え方ひとつ」だ。 だから、切羽詰まって、 考え方に偏りが生じてきた時にこそ、 あえて自分を可愛がり、ハグし、 どんなに忙しくとも時間を作って、 自分が面白がることをやり、 自らを喜ばせなくては。 「子供のために!」 「親のために!」 「夫のために!」 と、自分を押し殺して頑張り続けると、 切れてしまう。 心の糸が。 「女は、いつでも誰かのために生きている」 現時点では、シャクだけど厳然とあるこの事実を、 悲壮感でなく、幸福感で語るためにも、 私は、誰にも頼らない心を持ちたいと思う。 明るい気持ちで。 (了) |
(話の駄菓子屋)2014.2.4.あかじそ作 |