チロルチョコさん 12200キリ番特典   テーマ:手紙

「朱の文字で」
 私は、その頃、なにをどうやって生きていたのか、ほとんど覚えていない。
 ただ、団地の3階で、4歳、2歳、0歳の子供を抱えて、
下の階の老夫婦から、連日「うるさい」という意味の無言電話を、
日に2、30回受けながら、敷きっ放しの布団の上で、
毎日、引きこもって暮らしていた。

 夫は、仕事でほとんど家に居つかず、ひとりぼっちで、
どうしようもないうつ状態に、どっぷり浸かっていた。
 助けて、と言えば、夫は、「ごめん」と言うだけだし、
母には、「しっかりしなさい」と、叱られた。

 毎日、朝から晩まで泣き喚く乳幼児3人に囲まれて、
私は、日に日に気力を失い、
「どうやったら生きていられるのだろう」
と、真剣に困っていた。
 自転車を漕ぐのをやめたら倒れてしまうように、
「生きなくっちゃ、生きなくっちゃ」と、頑張らないと、
自分が、発作的に死んでしまうような気がした。

 今思えば、完全に育児ノイローゼだったのだと思う。 

 その頃、私は、「このままでは本当に自分はダメになってしまう」と思い、
通信教育の大学で、心理学を勉強し始めた。
 自分の心理の構造がわかれば、生き方がわかるような気がして、必死に勉強した。
 送られてきた難しいテキストを、自分で何度も読んだり、
図書館で資料を集めて調べたりして、レポートを提出し、
夏休みに4週間かけて大学のスクーリングに通った。
 夜中、子供たちと添い寝していた布団を、そっと抜け出して、
何時間も机に向かい、聞いたこともないような
難しい専門用語をひとつひとつ調べていくうちに、
自分がハタチごろから抱えていた、どうしようもない不安や葛藤は、
青年期に誰もが通る道なのだ、ということがわかった。
 いつも心に何かが重くのしかかっていたのは、
教科書通りの青春だったのだ、ということがわかった。

 私の憂鬱は、アカンボの頃からの不信感の積み重なりだ。
 
・・・・・・私は、自分の心を、そう分析した。

 生まれたばかりのアカンボは、快と不快の区別しかつかず、
腹が減っても、オムツが濡れても、暑くてもかゆくても、
みんな不快のサイン=「泣く」ということで親に訴えるしかない。
 「不快を訴えると、飛んできて、それを何とかしてくれる人がいるらしい」
と、まず気づき、そこで人生の最大の基盤となる信頼関係ができあがる。
 その時点でつまづくと、後からいくら媚びを売られたところで、
一生、「信じること」が苦手に人になってしまうらしい。
 「信じること」とは、勿論、人に対してでもあるが、
自分を信じることすら、できなくなってしまう。
 つまり、「自信」のない人になるわけだ。 
 
 私が身近な人たちから自分のアカンボの頃の話を聞く限りでは、
やはり、その辺に自分の基礎部分の不安定の原因があるようだ。

 不確実な、実感のできない愛情が、乱雑に積み重ねられたジェンガのように、
いつもユラユラと不安定に揺らめき、積んだと思ったらまた崩れる。
 愛を求めると、背を向けられ、こちらが背を向けると、それきり誰もが私を忘れてしまう。
 そんな、不安と不信と、切ない愛情欲求とが、いつもいつも、何かをしようとする時に、
私の心に覆い被さって、何も出来なくなってしまう。

 しかし、勉強していくうちに、絡んだ糸が、ほろほろと少しづつほどけていった。
ひとりぼっちの深夜の学習だったが、すっかり縮こまった心が、
世界中に広がっていくような開放感があった。
 相変わらず不信や不安は大きく、何ひとつ変わらないのだが、
何が何だかわからない、という不安感は、消えた。
 自分が沈んでしまう理由がわかってきた。

 夏休みのスクーリングで、全国から通信で学ぶ仲間が集まり、
「理系としての心理学」を、統計用計算機や検査・実験などで学習した。
 哲学畑出身の、熱血教育心理学博士の話を、毎日、一番前の席で聞いた。
ここにいるみんなは、少なからず、自分の心をもてあましているということが
話していくうちにわかった。
 
 食堂で、関西の看護婦さんと一緒に食事を摂り、
お互いの身の上話をして手を握り合い、そして笑って別れて、
別々の授業に出た。
 私は、夕方まで図書室にこもり、発達心理学のレポートを書いた。
 大学は、多摩の山のてっぺんに建っており、おそろしく景色がいいのだが、
燃えるような夕焼けに目もくれず、私は、机に顔をはりつけ、
何時間も何時間も、夢中になって、レポートを書いた。

 自分の育ってきた道のりを。
 自分が育てている3人の子供たちのことを。
 人が育っていく上での、難しいことを。
 どうしたら発達しながら生きられるのかを知りたい、
知りたくてたまらない、と。
 
 レポートを提出し、半ば放心状態で3時間半電車に乗って、
子供3人を預けている実家に到着した。
 母親は、こんな状況でも勉強したいと言う私を、理解して、協力してくれ
る。
今は、私は、母親の愛情を、実感できるのだ。
 愛情を実感できなかった長い年月を、何とか塗り替えたくて、
毎日必死で勉強しているけれど、それは、勉強でどうにかなるものではなく、
やはり、何か皮膚感覚で長い時間をかけて、取り返していくものかもしれない、と、
皮肉にも、スクーリング中に気がついた。

 勉強も大切だが、愛を待っていないで、自分から積極的に愛情を実感すること、
愛する者たちには、「愛している」というわかりやすいシグナルを発信していくこと、
そっちの方が、今の私には大切なように感じ始めていた。

 結局、大学には、在学が許される9年間いっぱい在籍し、
卒業できないまま、その期限は切れた。
 その間、私は、発達心理学の教授から、一生忘れられない手紙をもらった。

 あの、火事のど真ん中のように真っ赤に染まった、
夕日の中の図書館で書いた、レポートの返事である。
 それは、とても簡単なことばで、たった2〜3行だったが、
それを読んだ時、私は、30年分の涙が全部溢れ出し、
長い間空洞だった心の一部が、ぴたっと埋まったような気がした。

 それは、こんな文面だった。


∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
あなた、つらかったでしょう。
長い間よくがんばりました。
そして、ちゃんと大人になれましたね。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞


 おじいさん先生の書いた、その朱の文字は、
泣きじゃくる0歳の私を抱き上げ、
暗い目をした5歳の私の頬を両手で包み、
そして、悲しみに暮れる10歳の私の頭を抱いた。

 魔法のような手紙だった。


                 (おわり)
(青春ってやつは)2002.03.22 作 あかじそ