「 意識しよう 」


 ウィキペディアで調べたら、仏教でいうところの「意識」について、
次のように書いてあった。

 【「識」は心王を表し、意識は、
五感の眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)の前五識と区別される
第6番目の心(第六識)である。】


 なるほどね、なるほどなるほどなるほどね、である。

 実は、私は、非常に心配性で、
ひとつのことが心配になると、狂わんばかりに落ち着きが無くなり、
自分でできる限りの下準備をしつこいほどやり、
周囲の人間にも、同じテンションで心配しやがれ、と強制してしまう悪い癖がある。


 そのせいで、夫も子供たちも、
私の心配ごとが解消されるまで、
私のピリピリに振り回されまくることになる。

 私自身も、心配している自分に追いまくられ、
自分で自分の精神を追い詰めている自覚がある。

 それなのに、どうだ?

 その心配ごとが過ぎ去ったとたんに、
自分でもあきれるくらいに、
いきなりどうでもよくなってしまうのだ。

 仕事のことに意識が行っている時は、
仕事の心配でキーキーキーキーし、
息子の受験に意識が移ると、
突然仕事の心配事がどうでもよくなり、
受験の心配でキーキーキーキーしてしまう。


 つまり、私は、意識している対象に対して、
必要以上に集中してしまうのだ。

 【五感の眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)の前五識と区別される
第6番目の心(第六識)】が、過敏なのだと思う。

 また、ウィキペディアでは、こうも書いてある。

 【よく自覚的という意味で「意識する」ということがいわれるが、それは仏教では心所(個別の心作用)の作意(注意する働き)、あるいは唯識でいう自証分の働きなどに求められる。もっとも、前五識が明瞭に働くのは、それらに意識が同時に働いているからである。】


 難しくて何だかよくわからないが、
もしかして、これは、「心は五感に振り回され、五感は、心に振り回される」
ってことなのだろうか?

 それとも、「心」が伴うことによって、初めて、
「五感」が冴え冴えと働くのだ、ということなのか?

 「心」っつーもんが、「感覚」にビンビン影響を与えているってか!

 「今、自分が意識していること」、「今の心配事」は、
私の眼に、耳に、鼻に、舌に、身体に強い影響を与え、
あらゆる神経をビンビンに緊張させ、過敏に反応させている、
ということなのかい!


 は〜〜〜〜〜あ! 疲れるわけだ!!!

 なるほどね〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!

 心配のし過ぎで具合が悪くもなるわけだ〜っ!

 自律神経失調症になるわけだわねえ〜〜〜っ!!!

 意識が高いとか、低いとか、よくみんな言うけれど、じゃあ、こうしよう!

 意識も感覚のひとつだ!

 五感を必要以上に疲弊させる事の無いように、
必要な時に、必要な感覚を駆使するためにも、
普段から「意識」をバランス良く保つようにしようじゃないか。

 キリキリキリキリしすぎないで、
ボケボケボケボケしてないで、
落ち着いて、平らかに、シンプルに、
「意識」をして生きていこうじゃないか。

 狂った意識に引っ張られた五感が疲弊し、麻痺しちゃう前に、
落ち着いて「意識」しよう。

 水平線を、
遠く光る星を、
ゆっくりと昇るお日様を想って、
崇高な「意識」しようぜぃ!


 (了)

(しその草いきれ)2015.1.27.あかじそ作