「 バッテリーが上がって、人生アゲアゲ 」


 日曜日の午後、買い物に行こうと、車に向かい、
ドアのキーをリモコンで「ピッ」と開けようとしたら、開かない。

 (ん? リモコンの電池が切れたのか?)

 (これ、ボタン電池だよなあ?)

 (どうやって開けるんだ? このちっちゃなリモコン)

 久しぶりに鍵穴に鍵を差し込んで解錠し、ドアを開けた。

 そして、運転席に座って、エンジンをかけると・・・・・・

 かからない!

 何度キーを回しても、うんともすんとも言わない。

 (あ! またバッテリーが上がった!)

 面倒なことになった。

 数年前にも、バッテリーが上がり、
父の車にブースターケーブルをつなげて助けてもらったのだ。

 今は、午後2時半。

 あと30分もしたら、父の晩酌タイムが始まってしまう。

 急いで父に電話をし、事情を話すと、
すぐに飛んできて、直してくれた。

 父が調べてみると、ルームランプのスイッチがオンになっていて、
放電してしまったのだろう、とのことだった。

 そういえば、数日前、四男の高校の三者面談に行った時、
帰りに四男の自転車を車に積んで、一緒に帰ったのだった。

 軽のワゴンに27インチの自転車を無理矢理詰め込んだので、
あちこちでバキバキ音がしていたのだが、
きっと、その時、ルームランプのスイッチを押してしまったのだろう。

 完全に放電してしまったので、
父の車に一緒に走ってもらって、
田舎道を15分くらい走ってもらった。

 車は、走らないと放電する一方らしく、
今回のように完全に放電してしまったら、
少なくとも30分から1時間は、走って充電した方がいい、
ということだった。

 そんなこともよく知らずに、
いつも平気であちこち車で出かけていたと思うと、
恐ろしいったらありゃしない。

 車のことをまったく知らない状態で車を乗り回している、
世の大半のおばちゃんのひとりである私は、
今回、はたと、気がついてしまった。

 走りながら充電する。

 走らないと放電して、動けなくなる。

 これって、人生と同じじゃないか、と。


 生きることで充電するのだ、人間は。

 生活することによって、
人はエネルギーを補充しながら生きてゆくしかない。

 充電と放電の同時発生する人間と言う車に乗り、
人生をドライブしているのだ、私たちは。

 「暮らし」というものに背を向けて、
見栄を張り、理屈ばかりこね、しのごの言って、
カッコつけてじっとしていたら、
人間は、どんどん放電していって、
エネルギー切れで動けなくなってしまう。

 人も、車も、バッテリーが上がる。

 上がらない人は、上がらないけれど、、
上がる人は、ちょいちょい上がる。

 それは、車の乗り方による。

 人の生き方によるのだ。


 渋滞にしょっちゅう巻き込まれ、
エアコンをガンガン掛け、
雨に始終さらされ、
炎天下にさらされ、
雪にさらされ、
酷使された車。

 日曜日にしか乗らない車。
 近くにしか行かない車。
 放っておかれる車。

 バッテリーが上がりやすい。


 人に揉まれ、
気を使いっぱなしで、
過酷な状況に置かれ続けた人。

 たまにしか人に会わない人。
 近くにしか行かない人。
 放っておかれる人。

 これもまた、バッテリーが上がりやすいのだ。


 うちの車は、バッテリーが上がりやすい。

 そして、私も・・・・・・


 49歳を目前にして、
車のバッテリー上がりから、人生を知る。

 知ったから、修正ができる。


 さて、翌日の月曜日。
 週に一回の、私の休日。

 みなが忙しく出勤した後、
電池の少ない車で、田舎道を30分、ただ走る。

 いつも必ずつけているカーラジオをオフにして、
窓を全開にして、エアコンもオフ。

 右手を日焼けしながら、
畑ばかりの道を、ただただ、走る。

 買い物のためでは無く、
誰かをどこかに運ぶためでもなく、
走るために、走る。

 ラジオを聞きながらではなく、
人と話しながらではなく、
ひとりで車の調子を窺いながら、
風をきって、ただ、走る。

 走る。

 走る。

 車が充電していくのがわかる。
 私が充足していくのも、わかる。


 はい、バッテリー上がって、人生、アゲアゲ!




  (了)

(しその草いきれ)2015.6.16.あかじそ作