「 つつましく生きてみる(ふり) 」 |
分相応に、自分に与えられた命を全うする。 つまり、そういうことなんだろう。 自分のすべきことを一生懸命に行い、 とはいえ、心身を壊すほどまでは、頑張らず、 気配りを怠らず、かつ楽しみながら、 人との協調のもとに生活をする。 生きることは、かくも単純のようでいて、 そうやすやすとは、行かないのが常なのだ。 私も、つつましく生きてみようと心掛けてはいるが、 なにか、これが自分の生き方とそぐわないような気がしてならない。 結婚をし、子供を産んで、家事育児をして、働いて家計を助け、 休日の午後にコーヒーを豆から挽いて、一服している自分に、 もやもやもやもやと、違和感を抱かずにはいられない。 必死に普通の家庭を維持しているけれど、 心のどこかでは、厳然として、 「こんなのは、自分らしくない」 と思っている。 私のやっていることは、「なんちゃって主婦」だ。 いや、私だけではない。 誰も、「家庭」や「親」や、「社会人」や「大人」の基準など、 知っちゃあいない。 何が「標準仕様」かなんて、知らない。 誰も彼もが、「こんな感じかな?」「こんなもんだろ」と、 社会に向けての、なんちゃっての顔でやっている。 なんちゃってパパと、なんちゃってママとが、 なんちゃって家族となり、 なんちゃって先生のやっている、なんちゃって学校に、 自分の子供を通わせている。 時々、学校に、 金髪に髪を染めた子供を送り込んだり、 ダメだって言われてるのに、参観日に車で乗りつけたり、 自分の子を特別扱いするように先生に命令する親がいるが、 これは、「なんちゃって」しようとも思わない、 「そのまんま人」なのだ。 「そのまんま人」があまりにも多いと、 集団生活の統制がとれなくなるので、学校側も、 おそるおそるお手紙で保護者にお願いしている。 「お子さんに朝ごはんを食べさせてください」 「朝ごはんを食べないとお子さんの心身に支障をきたします」 「親御さん、朝起きて、お子さんを送り出していただけませんか?」 「子供たち〜! 朝ごはんは、もう、自分で作ろう!」 「授業参観で、保護者のみなさまは、私語をお慎みください」 「授業に支障をきたすので、お静かにお願いします」 「学校では、携帯電話の電源をお切りください」 「廊下をかかとの高い靴で歩くのは、御遠慮ください」 学校も大変だ。 なんちゃって先生も、頑張って本当の先生になるしかない。 なんちゃって両親の中には、 はなから「マジの親」になる気など皆無の者もいるのだ。 一応、社会を生きる者の一員として、 子供可愛さで、一生懸命に「マジの親」になろうとして、 家庭って、こんなかな? 親って、こうかな? と、 努力する人は、多い。 しかし、いまや、 「個性重視」の教育で育てられた人が親になる時代、 なかなかに、自由すぎることになってきている。 ロリコン教師や、買春する父親、 クラブ活動気分で不倫する母親。 働かずに親に食わせてもらっている夫婦、 ジジババに子育てを丸投げする夫婦、 いや、「夫婦」と言うか、もう、「オスとメスのセット」と呼ぶべきか。 もはや「なんちゃって」すら装わない、 「そのまんま人」の親があふれている今、 その子供たちは、 心休まる「巣」の無い暮らしをしているのだ。 心に安全地帯の無い子供たちは、 目指すべき対象すら見つからず、 ただ、漂うように生きていくしかないじゃないか。 足場がフニャフニャの「なんちゃって家庭」だと、 踏み切って飛び上がる支点もぐにゃぐにゃで、 足をくじいて、転ぶしかないじゃないか。 草食男子や肉食女子が増えるのも、当然だ。 力を込めて生きれば、足元がゆるくてこけるし、 本能のままにふるまえば、それが通っちゃうんだから。 誰もが初めて親になり、 初めて働いて、 初めて大人になるのだけれど、 全員が死ぬまで「なんちゃって」じゃ、社会は、壊れちゃう。 はじめは、「なんちゃって」でも「ふり」でもいいから、 一応、本物を目指した方がいいんじゃないか? 我慢したくない、とか、 ありのままでいつづけたい、とか、 わかる、わかる。 気持ちは、よくよくわかるけど、 かっこ悪いんだよなあ、ダサいんだ。 年くっても、いつまでも子供みたいに好き勝手してるヤツ。 物凄く、だっせー「なんちゃって大人」だよ。 子供でもなく、大人でもない、 「老けて腐ったアホ幼児のなれの果て」だもの。 自分が本物になれるかどうかは、わからないけれど、 本気で「本物になろう」とは、思おうよ。 ひとりひとりが成熟しなくちゃ、 世の中も成熟しないもん。 最初は、「ふり」でもいいから、みんな、ちゃんと、本物を目指そう! 次世代のためにも! マジで!! (了) |
(しその草いきれ)2015.6.23.あかじそ作 |