「差別するということ」


 私が高校生くらいの頃だったか。
 両親が激しい夫婦喧嘩をしていたときに、
父が母に、おかしなことを言った。
 
「朝鮮部落出身のくせに、ナマイキだ!」

 母の実家は、東京の下町で、隅田川の土手沿いにある。
 かつてそこは、在日韓国人が多く住んでいた。
 彼らは、日本人から、いわれなき差別を長年受けつづけ、
韓国人たちが住む地域は、「朝鮮部落」などと、
差別的に呼ばれることがあったらしい。
 
 母は、もともと浅草出身の日本人だが、
引っ越して、その地域に住むようになったという。
 
 歴史的背景など、当時、ハタチそこそこの無知な父が知る由もなく、
これはきっと、父が、母と結婚する際に、親兄弟たちから
「なんだ、朝鮮部落の女と結婚するのか」
と言われ、そういう呼び方があるということを初めて知った、
ということは想像に難くない。

 それにしても、ひどい差別である。

 父は、それまで差別の意識などなかったのに、
親兄弟からおかしなことばを教わってしまった。
 幸い、父は人をおとしめて優越感を感じる、というような、
まどろっこしい思想ができるほど複雑な人間ではないから、
自分が喧嘩で負けそうになったときに、苦し紛れに言うだけだ。
 
 でも、そう言われた母は、どうしたらいいのだ?

 そう呼ばれている地域に住んでいたのは事実だが、
それがどうしたというのだ。
 今更その事実を変更できるはずもなく、
また、何も悪いことなどしていないのに、
人から見下される、というのは、どういうことなのだろう。
 
 全国の「部落」と呼ばれていた地域の出身者は、
就職に不利だったり、いまだに仲間ハズレにされていたりするという。
 子供時代、ろくに教育も受けられずに、
誰もやりたがらない、しかし、なくてはならない、きつい仕事に就くしかなかった。
 現在、字が書けないで苦労している大人もいるし、
足蹴にされ、搾取されっ放しの人生を送った人も多い。

 忘れてはならないのは、差別という物が昔の話などではない、ということだ。
 そういうわけのわからない偏見は、いまだに残っているという。

 差別がなかなかなくならないのは、「差別」という観念のない子供に、
「あそこの誰は、どこどこ出身だから付き合うな」
などと、大人たちが差別意識を植え付けるからなのだ。
 
 地域の中で、一部の人を、みんなで差別する。
 そして、その地域全体を差別する、ほかの地域の人たち。
 人を差別し、地域を差別する、そんな人たちの住む国を、
また差別する、ほかの国の人たち。

 人は、他人を自分より低いものと認識することで、
「自分は、あいつに比べたら、ずっとマシだ」
と、そんな風に自分をなぐさめるところがあるらしい。
 なんて貧しい思想なんだろう。

 でも、そういう私だって、無意識のうちに、
誰かを差別して、彼らを中傷をしているかもしれない。
 その「無意識のうちに」というのが怖いのだ。

 みんな平等だ、と、ことばでは言っていても、
私は誰かに見下され、誰かを見下している。
 ただ無意識に生きているだけでは、
そういう意識は自然と代々受け継がれ、決してなくならない。
 
 差別の歴史は、忘れてはならない。
なぜなら、その原罪を忘れた頃にまた、
差別は始まってしまうからだ。
 差別というものを、みんながよく知って、よく意識し、
そして、そのくだらなさと罪深さを、知らなければならないと思う。

 ひとごとでは、ないのだから。





しその草いきれ) 2002.04.20 作 あかじそ