「 昭和の暮らしは、超豊か 」


 昔の写真を見ると、
セピア色の画面の中では、
ダサくて、不便で、素朴で、めんどくさいけれど、
人々の眼の色が輝いていることに気付く。

 みんな、「生きる」ということを、動詞として、行っていた。

 「生きている」という状態を、無意識にキープしているのではない。

 子供から、お年寄りまで、「生きる」をやっていた。

 心に薪をくべて、体に火をつけて、
よいしょ、よいしょ、と気合を入れて暮らさなければ、
生きていけなかった。

 だから、みんな、「生きている」ということを、
嫌でも実感できていた。

 生きるつらさを痛切に感じかわりに、
生きる面白さも同時に感じることができた。

 ぼんやりしてたら、生きていけない。

 だから、みんな、目に光があった。


 しかし、今は、違う。

 便利で楽になった分、
いつの間にか生きていられるようになった。

 子供たちは、いや、若者たちも、
いやいや、それどころか、大人も、お年寄りたちも、
自分が常に「死」と直面していることを知らない。

 「死」と直面する恐ろしさを、日常から切り離し、
何もしなくても生きているのが当たり前だと思っている。

 みんな、気楽に生活できるようになったのと同時に、
「生きている」という実感を失ったのだ。

 「生きている」という実感は、
実は、人が生きる上で一番大事な感覚なのではないか?

 生きているのが当たり前だと思い込んでいる者は、
今日の命のありがたさがわからない。

 激しい交通網の中、たまたま事故に巻き込まれず、
今日一日無事に過ごし、
何事もなく生きて帰ってこられた幸運に気付かない。

 父や母や夫や子供が、仕事に就けて、
一生懸命働き、生きる糧である食料を買うことができ、
眠る部屋を得て、着る服を得て、
今日の生命活動が維持できていることに気付かない。

 大勢の人からの恩恵をいただいて、
やっとこさっとこ生きていられるということに、
さっぱり気付かず生きているとしたら、
どんなに空虚な気持ちになるだろう。

 世の中は、今、相変わらず不景気で、
仕事もなく、今日の宿も決まっていない人たちが、たくさんいる。

 そういう境遇になって初めて、
暮らしていくこと、生きていくことが、
いかに困難かを知るだろう。

 生きる実感が無く、なぜ生きねばならないのか、
この虚しい人生をどうしたらいいのか、と嘆く人たちは、
現代の困難に生きる人々の目に、どう映るのだろうか?


 ああ、セピア色の写真の中に飛び込んで、
昭和の暮らしの中で生きたいものだ。

 そう感じる人が、きっと、世の中には、たくさんいるはずだ。

 ロハスが流行っているのは、
そういうことなんじゃないのか?

 要するに、「ちゃんと生きたい」だけなのだ。

 実感を以て。




   (了)

(話の駄菓子屋)2015.10.6.あかじそ作