「アウトドアライフ」

 私は、キャンプやバーベキューや、
川遊びや海水浴や山登りが大嫌いだ。
 外が嫌いだ。

 なぜなら、私は高校を卒業するまで、
山奥の小さな村に住んでいて、
家の中に居てもアウトドアのような、
まったく原始的な暮らしをしていたからだ。
 
 電気もガスも水道も、通ってはいたが、
その頃まだ実権を握っていた祖父祖母が、
「薪も川もそこにあるのに、なぜ金を払って買うのだ」
と、文化的ライフラインの使用を極端に嫌った。
 
 山から枯れ枝を拾ってきて家の裏に積んでおき、
それをくべて燃料にし、料理も風呂沸かしもやった。
 毎日燃やす分の薪と、たゆまず火を作っていく作業を怠らなければ、
ガスを買う必要はなかった。
 火は、家族全員の日々の、
イヤになるほどの地道な作業によって作られるものだったのだ。
 飲み水はさすがに水道から出していたが、
食器や鍋は、家の前を流れる小川で洗っていた。
 桃太郎に出てくるお婆さんのように、
毎日「川で洗濯」だってしたものだ。
 風呂も川の水を汲んでから、薪で焚いた。

 高校卒業と共に、私は都会に飛び出した。
 親も年寄りも、みんな捨てた。
 こんな原始人みたいな生活、
もう一日だって我慢できなかったのだ。

 小さな運送会社の事務の仕事をし、
そこの同僚と結婚した。
 同僚といっても、彼は三十路で、
私とは、ひとまわり以上歳が離れていた。
 彼には貯金も少しあったらしく、
結婚と同時に新築マンションを購入し、
最近の私は、そこそこ都会的な暮らしができていた。

 ところが、だ。

 ある朝起きたら、電気もつかないし、ガスも出ない。
マンションの管理人に電話しようと思ったら、
電話も通じない。
 携帯もダメだ。

 マンションからは、ぞろぞろと人が出てきて、
みんな不安げに話し合っていた。
 私も7階のベランダから下を見てみたが、
街一帯、みんな同じ状態だったらしく、
高級住宅地と呼ばれる地域の一戸建ての家からも、
頭にカーラーを巻いたままの奥様や、
半纏を引っ掛けた寝巻き姿の男の人たちが家の外に出て、
近所の人同士で話し合っていた。

 予備の電池のストックがなかっため、ラジオもつけられず、
何がどうしてこうなってしまったのかさえわからない。
 近所のコンビニに買いに行ったが、アルバイトの学生が
「電気が止まっててレジが使えない」
と、パニクるばかりだった。
 その場にいた中年の男性が、
「消費税分も入れて、金、ここに置いとくからな」
と言って、店の電池をどっさりつかんでレジに金を置き、
とっとと出て行ってしまった。
 それを見ていた他の人たちも、みんな真似をして、
それぞれ持てるだけの電池やミネラルウォーター、
パンや缶詰などを抱えて、金をバッとレジに置いて出て行った。

 中には、明らかに足りない代金を置いて、
あるいは、どさくさ紛れに金を払わず、
大勢の人が店の商品をワシヅカミして外に出て行ってしまった。
 私は、その一部始終をそこで突っ立って見ていたが、
その光景は、ほとんど暴動だった。

 どこの店に行っても、同じような状態で、
電気の消えた暗い店は、何でもありの無法地帯だ。
店を閉めているところも多かった。
 電気が止まって、ダメになってしまう前に
店の冷蔵庫や冷凍庫の中のものを、
店頭販売しているところもあったが、
それらはあっという間に売り切れてしまった。

 昼になっても状況は変わらず、
人々にイラつきが増していった。
 マンションの入口では、
大音量でラジオの情報が流れていたが、
日本の電波はまったく入らず、
FMで英語のニュースが延々と流れていた。
 しかし、この緊急事態に関する情報ではないらしく、
時々、のんきにオールディーズのメドレーが流れていた。
 
 3月の寒い時期なだけに、みな凍えてしまいそうだった。
 マンションにはエアコンがついていて、日当りもいいため、
石油ストーブを使っている家庭は、ほとんどないようだ。
 ファンヒーターや、電気ストーブ、ガスヒーターを使っている人はいたが、
この状況では、それらは、どれも冷たい金属の塊でしかなく、
私たちの体をちっとも温めてはくれないのだった。

 私は、ふと、自分の育った山を思い出した。
 もし、これがあの家だったら、何の問題もなかったはずだ。
 薪は、山に行けばいくらでもあるし、
水は、目の前を絶えず流れている。
 軒には、干した野菜がいつでもたくさん干してあるし、
土の下のムロを掘れば、野菜が新鮮なままたくさん保存してある。
 一冬、じっと家にこもっていても暮らせるだけの備えもあった。

 私は、カセットコンロで湯を沸かし、買い置きのチキンラーメンを作り、
夫と、遅いブランチを摂った。
 マンションのベランダでは、アウトドア用品のバーベキューセットで
何やら料理する人々がたくさんいた。
 私がアウトドアが嫌いなため、
うちにはキャンプ用品がひとつもなかったが、
夫が思い立って、近くのアウトドア用品店や釣具屋に走り、
たくさんの燃料を買ってきた。
 聞けば、店先で売り出そうと準備しているところを、
待ち構えていた人々が大勢で襲い掛かるようにして奪い合い、
あっという間に、売り切れてしまったらしい。
 普段おっとりしていて、何でも後回しにされてしまう夫だったが、
私のお腹には初めての赤ちゃんがいるということもあって、
家族を守る為、必死になって奪い合ってきたと言う。

 それから4日間、何の援助物資も届かず、
銀行も閉まったままで、みんな手元に何もなくなり、
寒さと飢えで病気になってしまう人が相次いだ。
 私は、ちょうど妊婦検診の日だったため、
ダメモトで病院に行ってみたが、そこはまるで野戦病院だった。  
 よっぽど悪くなってしまった人しか点滴が受けられないらしく、
待合室のソファーには、ぐったりした子供や年寄りが並べられ、
大きな総合病院から町医者に搬送されることすらあったと言う。

 毎日が、アウトドアライフだ。

 平日、死に物狂いで働いて、
休日にわざわざ車に乗って遠出して、
金を払って、レジャーとしてやっている、まさにアレだ。
 
 突然何もかも止まってしまった日から5日目、
食料やら水やらが配給されたが、
トイレもすぐに汚物であふれ返ってしまうし、寒いし、
避難所となっている学校の体育館では、
プライバシーゼロで、気疲れして全然眠れなかった。

 一体、何が起こったのか知らないが、
噂では、日本の主要なコンピューターがすべて、
テロか何かでメチャメチャにされてしまい、
輸入も輸送も止まっているらしい。
 電気も、ガスの配給も、復旧には数ヶ月がかかると言う。

 私は、冷え切った体を毛布にくるんで、
体育館の隅で、しずかに空腹からくるツワリに苦しんでいた。
 吐くものは、もう何もない。
 1日2回の食料の配給も、そんなわけで喉を通らなかった。

 日に日に弱っていく自分を感じながら、
夫に寄りかかって、寝るでもなく眼を閉じて過ごした。
 
 と、突然肩を揺すられて、目を開けると、
そこには、薄汚れた作業着を着た父がいた。
 
「葉子、ウチけえるぞ」

 そう言って、父は、私の頬を黒いざらざらの手でなでた。
 私は、父と夫に両脇を抱えられて立ち上がり、
軽トラックの助手席に乗った。
 父は、黙って運転し、夫は、荷台に乗って、
冷たい風に吹かれていた。
 髪をぼさぼさにして、時々、車内の私を覗き、
ピースサインを出した。
 

 あれから半年が過ぎ、私は今、
あんなにも嫌っていた故郷の山で、
アカンボをおんぶして洗濯物を干している。

 婆ちゃんの古い浴衣で作ったオムツを、
川で、洗濯板を使って洗い、何十枚と干している。

 街では、以前通りにライフラインは復旧したと言うが、
私たちは、もう街には戻らなかった。
 年老いた祖父や祖母の介護に追われる母や、
力仕事で働き詰めて、腰を痛めた父を助けて、
自然とここに根を降ろしていた。

 強い風が山から吹き降ろしてきて、
私は、手を滑らせてオムツの一枚を落とした。
 拾い上げた時に、いいタイミングで、カーン、という音がし、
振り返ると、夫が薪をナタで割っていた。
 
 目が合うと、夫は、少しだけ笑い、
割れた薪を拾って脇に軽く投げた。
 白いTシャツを肩までめくり、
二の腕の筋肉があわらになっている。
 手ぬぐいを頭に巻いて、頬もシャープに肉が落ち、
以前より引き締まった体で、思い切りナタをふるっている。

 以前、両親や祖父を、男尊女卑だと罵り、
「男も女も、みんな同じよ」と叫んで走り出た、この同じ場所で、
夫が男で、私は女だということを、喜びを持って実感した。

 なぜ嬉しかったのかわからない。
 ただわかっていることは、都会に居ても、田舎でも、
この人は私たち家族を全力で守ってくれるだろう、ということだ。
 この優しい夫の「男の力」を、
都会で人を押しのけ、モノを奪い合うことに使って欲しいとは思わない。
 また、そんなことは彼には似合わない。
 誰と競うこともなく、ただ家族が生きていく為だけに、
力いっぱい、迷うことなくナタをふりおろし、
田を耕し、荷を背負うことだけに力を使って欲しい。
 自然は決して甘くはないけれど、
私たちは、ここで生きていくことを選んだのだ。
 
 私は、その場で軽く飛び、背中のアカンボの位置を直して、
パンパン、と、洗濯物を広げて振った。

 私たちの古くて新しい暮らしが今、始まった。

 

              (了)

(小さなお話) 2002.05.18 作 あかじそ