「ギャング」

 夫とは、1年半の同棲の末、結婚した。
 私の就職と同時に、
「夫婦です、新婚です」
と、嘘をついて新築のアパートを借りた。
 
 私は、中2のスキー教室のときに親に買ってもらった、
ミッキーマウスのスポーツバッグひとつで家を出たので、
家具も食器も何もなかった。
 夫が故郷の家から、
上京するときに持ってきた鍋釜だけで暮らしていた。
 私は、ろくに家事の手伝いもしてこなかったから、
家のことが何もできず、
その上、入社したてで疲れきって帰宅してくるものだから、
家事が全然できなかった。
 そのうち私が自律神経失調症をこじらせて休職し、
家に引きこもることになると、鬱症状はどんどん進行し、
ついには生きているのが耐えられなくなってきた。
 実家に半べそで、
「会社やめたい」
と電話をすると、母は、
「お父さんが会社に借金までして4年制大学まで出してやって、
一流企業に幹部候補生で入れたのに、勿体無いじゃないの!」
と、珍しく説教してきた。
 私はもう、号泣しながら、
「やめないと死んじゃうから!
 あそこにまた行くくらいなら、もう死んだ方がいいから!」
と、叫ぶと、さすがに面食らったらしく、
「とりあえず家に帰ってきなさい」
と、くもった声で言われた。

 その頃まだ夫ではなかった今の夫は、
「実家に帰ったり、精神病院に行くのはやめてくれ、
自分が治してみせるから」
と言って来た。
 しかし、多額のローンを組んで
勝手に高い買い物をしてきた数日後に、
仕事をプイッ、とやめてしまい、
いつまでも家でぷらぷらしている人には、
もう何の未練もなかった。

 そのローンを組んでくる前に、
すでに私の具合はかなり悪くなっていたのだが、
相方に何の相談もなく仕事をやめられてしまった日には、
返済のために私は、どんなにつらくても仕事をやめられず、
それで病気がこじれまくってしまったのだ。

 ひさしぶりに実家に帰ると、微妙に様子の違うムードに戸惑った。
 私の部屋は弟のモノの倉庫になっていたし、
「心底邪魔だ、来るなよ! いつ出て行くんだ!」
と、弟に連日言われていた。
 
 私は、今すぐにでも精神病院に駆け込んで
生きるのが苦痛でなくなるようにして欲しかった。 
 会社を病気退職する場合、病院での診断書が必要なため、
一刻も早くその書類をもらい、会社に送って、
一秒でも早く退職したかった。
 退職するまで毎日、専務やら取締役やらから、
「軟弱なこと言うな! 俺たちの頃は・・・・・・」
とか、
「休日にテニスでもしてれば治る!」
とか、
「元気になるまでデスクで雑誌読んでてもいいから」
とか、
変な「励まし」の電話がずっと続いていたのだ。
 大企業の偉い人たちに気に入られてしまったのが運の尽き。
 私は、その、
「元気出せ」「がんばれ」「元気出せ」「がんばれ」
の攻撃に、ますます症状を重くしていってしまった。

 母は、近所の顔見知りの診療所の先生にたのんで
何とかうまく診断書を書いてもらおう、と言い、
その内科に私を連れて行った。
 先生は、私の様子を見てすぐ、別室に私を移し、
「ぼくの友だちに心の専門のいい先生がいるから、
そこに行って治してもらうんだよ。大丈夫だからね」
と、やさしく言った。
 誰が見てもヤバイオーラを出していたのだろう。
 心の中は、「生きていたくない」ということで
いっぱいだったのだから、それも仕方がないだろう。

 私は、教えてもらった神経科に、地図を片手にひとりで向かった。
 母は、
「そんなところは死んでも行くな。どうしても行くなら、ひとりで行けば」
と言うので、その言葉どおり、私は翌日そこにひとりで行った。

 行くなり、待合室で叫んでいる女の人はいるわ、
がっくり肩を落としたサラリーマンはいるわ、
かなりあせった。
 しかし、そんな人のことなど、もうどうでもいいくらい、
自分自身がヤバイ状態だった。
 
 診察室のドアを開けると、年配の女の人が
セーターを着て、普通に座っていた。
 これが医者か? という感じだった。

「どうしました?」
 彼女は、何気なく言い、自然に微笑んだ。

 私は、そこで自分がどう答え、
どうやって元気になっていったのか、
ほとんど覚えていない。
 薬を飲んで、一週間に一回、カウンセリングを受け、
「あせらないで、マイペースでいいんですよ」
「自然にしていて、そのままでいいんですよ」
と、繰りかえし言われて、
少しづつ、生きる力が戻っていったのだ。

 生まれてこの方、私は、
「そのままでいい」
なんて、言われたことがなかった。
 がんばってシッカリ者をやっていないと、
親からも友だちからも、即罵られた。

 ところが、このおばちゃんは、
「そのままでいい」
と言ったのだ。

 それは、ありていなマニュアル通りの台詞だが、
私には、このおばちゃんが、
親よりも誰よりも大好きになった。

 仕事で、だろうけど、ダメな自分を受け入れてくれた、
唯一の人だったからだ。

 かくして私は、7割方元気になって、
同棲の部屋に戻った。
 それからほどなく結婚し、子供を次々身ごもって、
30歳までに「ノイローゼ」と「ギリギリセーフ」との間を
行ったり来たりしながら3人の子供を産んで育てた。

 その後、田舎に家を買って仕事も始め、第四子にも恵まれ、
だんだん元気で自然な自分に戻ってきた。
 20年かけて少しづつ病んだ心を今、
20年かけて治しているのだ。
 そして、それはもうすぐ完治しようとしている。
 そんな気がする。


 ・・・・・・ところで、私がまた、
バッグひとつでアパートに戻ったあの夜、面白いことがあった。
 
 夫は、がんばって部屋を掃除しておいたらしく、珍しくピカピカだった。
 彼は、もう二度と私が戻ってこないのではないかと日々悩み、
この部屋でひとりで待ちながら暮らしていたのだろう。
 頬がこけ、青白い顔をしていたが、
最寄の駅の改札で私を見つけると、
硬い表情をほどきながら、泣くように笑った。 

 久しぶりに並んで寝ていて、夜中に目が覚めた私は、
すぐ隣りに黒いワイシャツを着た男が寝ているのに驚愕し、
「ギャング!」
と、叫んで、思いきり夫のドタマをコブシでぶん殴ってしまった。

「うう」
と、うめいて夫は起き上がり、私もハッと我に返った。
 確かに夫は黒いワイシャツで寝ていたが、
それにしても「ギャング」ってことはないだろう。
 いつの時代なんだ。
「あっ、ごめんごめんっ!」
とその頃の私は笑いながら必死に謝ったが、
12年経った今では、意図的に夫のドタマをぶん殴る時もある。

 もはや、ギャングは、私の方である。


                  (了)


(しその草いきれ) 2002.05.23 作 あかじそ