「直列つなぎ」 |
複数の電池を直列につなぐと、 パワーは倍増するが寿命も短い。 並列につなぐと、パワーは貧弱だが、長く働く。 人の命も、案外そうしたものなのかもしれない。 私は、K‐1選手のアンディ・フグが急死した時、 ふと、そう思った。 若くしてカッと花開いた人が、全盛のまま、一瞬で命を終えること。 こういうことは、結構よくあることだ。 夏目雅子が亡くなったときもそう思った。 人は、生まれたときから、決まった量の「分」というようなものを持っていて、 短期間にそれを使い切り、世に花を咲かせて命を終える、 という生き方の人もいるのだろう。 分別のある人が「分不相応」を避けるのも、 意識的にか無意識なのか、 命を大切にしていることなのかもしれない。 よくうちの母は、 「私は太く短く、打ち上げ花火みたいに生きたいわ」 と言っているが、要は、そういうことなのかもしれない。 一瞬で、ドカンとみんなの心に一生残る花を咲かせるのか、 長い長い線香花火を楽しみ続けるのか。 また、その中間の生き方もあるだろう。 私は、文学部で学んでいた20代の頃、 母の影響や、文豪と呼ばれる人たちの影響もあって、 「私生活はどろんどろんで短命でも、世の中に残る文学作品をひとつ書き残したい」と思っていた。 しかし、生き続けてみると、それは私の性には合わないような気がしてきた。 誰もが目を留める大輪の花をひとつ咲かせるよりも、 今、音もなく風が頬をかすめたこと、 子供の背が伸びたのにハッと気づくこと、 同じ時代を生きる人たちと心を開いて話をすること、 そういうことのひとつひとつを束ねていって、 ひとつの大きな花束を作っていくことの方が、向いてる気がする。 それが、私の「分」のような気がする。 長生きしたいとか、生きた証を残したいとか、 そういうことは思わない。 私は、私というもの自体に執着はない。 ただ、死ぬ寸前に、 「ああ、あたしゃ生きたねえ〜」 と言って死にたい。 今、ひどく厄介に思っている、 泣くこと怒ること、哀しいことや切ないことも、 実は生きているということのスパイスなんだ。 楽しいことや嬉しいことに慰められて、 また張り切れるのも、生きてることなんだ。 生まれちゃったから生きる、それだけのことなんだ。 子供を産んだから育てる、 この親から生まれたから、この親を看る、 難しく考えないで、ただ生きりゃいいんだ。 自分の「分」を、自分流に生きる。 哀しい人生でも、挫折ひとつない人生でも、 そんなのどっちだっていいじゃない。 私たちは何億という卵の中から、運良く命と言う電池を入れてもらえた人たちなんだ。 どんな電気の流し方でもいいから、 まず、生きよう! |
(しその草いきれ) 2002.05.31 作 あかじそ |