「下りエスカレーター」   テーマ「開ける(ひらける)」


 朝から晩まで働き詰めで、「今日は、物凄く働いたなあ」という日の終わりに、
ふと家の中を見回すと、全然片付いていない、ということがある。
 あんなに一日中掃除洗濯、皿洗いに庭掃除と、身を粉にして働いたのに、
部屋はめちゃめちゃ、流しは汚れた皿だらけ、洗濯物は山盛りなのだ。
 自転車操業とは、よく言ったもので、ハウスキーピングを一瞬でも休むと、
ハウスはキープされない。
だから主婦はいつも、休まず働いている。
 風呂に入りながらタイルを磨いたり、
お茶を飲みながらテーブルを拭いたりしている。

 私は、生活を楽しんで、ゆっくりのんびり家事が出来る人がうらやましい。
必要以上に真面目な私は、いつも人生を全速力で走っている。
家事にしてもしかり。
 常に全速力。
常に限界のスピードで走っている。
 でも、一歩も前に進んでいないのは、もしかして、下りのエスカレーターを
必死で駆け上がっているからなのだろうか?
一瞬でも休むと、どんどん後退していってしまうのがその証拠だ。

  お気楽に生きているのに、グイグイ前進している人は、普通に平らな道を
歩いているのだろう。
それが普通だ。誰でも無意識でも、普通は平らな道を行く。
 それなのに何だ、私は。
 気分転換で行ったはずのデパートで、下りのエスカレーターで上に行こうとして、
ヒイヒイ言いながら昇っている。
「そこは昇れません」
――― そういうものなのに、あの、目の前で、バルンバルンと階段が地面に
潜り込んでいくのを見ると、惹きつけられるように足を乗せてしまう。
 そして、ずっと同じ場所で、無駄な体力の消耗と、無駄な怒りと悲しみ、
無駄な挫折感を味わって、何も買わずに、とぼとぼと道を引き返してくるのだ。
 
 一事が万事、その調子だ。
このままでは、毎日の家族のメンテナンスで、自分の人生が終了してしまいそうだ。

 これではいかんでしょ。
こりゃ、つまんなすぎるでしょう。

 何も、昇りエスカレーターに乗って、ラクチン人生を、なんて言ってない。
せめて、普通に平らな道を行こうよ、私。
 先に進もうよ。

 その場で頑張ることに固執するのはやめて、
顔を上げて、違う道を進んでみようよ。
その勇気があれぱ、次に進めるんだから。
 自分を阻むものなんて、本当は、何もないんでしょう?
今の温室から出るのがおっくうなだけで、このくくられた中で、
何とかやりくりして、人生をやりすごそうとしているんじゃないの? 
 そんなの、つまんねえよ、と、心のどこかで思っているくせに、
小さくまとまろうと、必死なんじゃない? 

 違う自分を仮定したことはある?

 今の夫も家族もいなくて、ひとりで自由に飛び回っている自分を。
どこかよその国で、違う暮らしをしている自分を。

 そのもうひとりの自分は、今、何を思っているのだろう。

 そのドアをひらくのは、今なんだ。
そして、ひらくのは、自分なんだ。
 人生は、勝手にひらけてこない。
自分で開けていくのだ。

 水前寺清子だって言っている。
「歩いちゃ来ない、だから歩いていくんだよ」と。
(あれは「幸せ」か)

 ともかく、「つまんねえよ」と思っている自分が自分の中にいたら、
それがあけどき、ひらけどき。
どんどん今と違うことをしてみよう。
 もしかして、カチッ、と自分に合う場所が、他にあるかもしれないじゃない?

 いつまでも、バルンバルンと地面に潜り込む、
下りエスカレーターの不思議な魅力に負けている場合ではない。

何でもいい!
はじめてのこと、しよう!
ちがうこと、しよう!

 つまんないことから、ピョッ、と人生開けちゃうかもしれない。
あきらめちゃいけない。
最後の最後まで。
開いて開いて、開きまくれ!

 世界を旅するあの人が、人々に希望を与えるあの人が、
もしかして次の自分なのかもしれないのだから。


                       (おわり)

2001.11.22 あかじそ作