「 これからおとずれるいくつもの困難に向かって 」

 今日、小学校のマラソン大会だった。
 この時期、喘息患者にとって、走る以前に
発作を起こさずに無事過ごせればラッキーなのだ。
 喘息の長男は、1年2年と発作で不参加。
 3年生の去年に初めて参加して、3年男子77人中58位だった。
 今年に入ってからは体調が良く、11月に入ってからも半袖で生活している。
 体育で走ると、面白いようにどんどんタイムが上がっていき、
学年でのリハーサルでは77人中15位だったという。

「お母さん、僕、絶対今年こそ大きい賞状もらうから!
ミニサイズの参加賞じゃなくて、20位以内の大きい賞状、
絶対にもらうからね!」

 次男は、へらへらしながらも図画で多くの賞状をもらい、
三男も、寡黙に皆勤賞を受賞した。
 いつもがんばっているのに、自分だけ賞状のないことに
異常に劣等感を抱いていた長男にとっては、
今年のマラソン大会は絶好のチャンスなのだった。
 だから、連日の練習でも、物凄く一生懸命に走っていた。
 私にも、祖父母にも、見に来てくれ、と大騒ぎだった。

 ―――が。

 スタートからトラックを半周したところで、
先頭集団が将棋倒しになっていた。
 目の悪い私は遠くて全然見えなかったのだが、
その一番下敷きになっているのが我が子だとは思いもしなかった。
 いつまで経っても長男が校外へと続くコースにやってこないので、
私は見逃してしまったと思っていた。
 が、ビリから3番目くらいに、彼はいた。
 全身土ボコリまみれになり、血の流れる足を引きずって、
右目を、かすり傷だらけの手で覆い、
ガッタンコン、ガッタンコン、と走っている長男がいた。
 顔はゆがみ、歯を食いしばって、いかにも苦しげだ。

 このまま保健室へと、とぼとぼ歩いていくものだろうと思っていた。
 少なくとも、今までの彼ならそうしていた。

 ところが、彼は、私の目の前を走り抜けていった。

 迷わずに前を見て、ガッタンコン、ガッタンコン、と
壊れた動きで校門の外へと出て行った。

 ヤツは、本気だ。
 私は、両手で口を覆い、ただ呆然と長男の後姿を見送っていた。

 しばらくして、先頭が校庭に戻ってきた。
 速い。
 速い子は、やっぱりフォームが違う。

 先頭集団がどんどんゴールしていき、
大きい賞状を先生から嬉しそうに受け取っている。
 そして、20位までの子の賞状はあっという間に売り切れた。
 それから、次々ゴールに入ってくる子供たちは、
小さい賞状を受け取り、それでも爽やかに
やり遂げたような嬉しそうな笑顔を浮かべていた。

 いつまで経っても、長男は校庭のトラックに戻って来なかった。
 私は、そわそわとその辺を歩き回っていると、
はるか向こうに、ガッタンコン、ガッタンコン、
と走るヤセッポチの子供がやって来た。

 私の目の前を通る彼は、口を歪め、見たことも無いような凄まじい顔をしていた。
 私が涙声で
「ガンバレー―――――――ッ!!!!!!」
と叫ぶと、ガッタンコン、ガッタンコンは、
少し速いガッタコン、ガッタコン、になり、
ゴールに向かって吸い込まれていった。

 長男の後からは、10人ほどのおっとりした子たちがゴールしていった。

 彼は、朝、家を出るとき、
「僕は最初は力をためて、最後にゴボウ抜きするのが得意なんだ」
「真ん中あたりをずっと走っていて、みんなバテた頃にどんどん抜かすよ」
と言っていた。

 ―――やったな、お前。
 転んで怪我して、ビリから3番目になっちゃったのに、
ビリから10番目で帰ってきたね。
 痛いのに、7人もゴボウ抜きしたのか。すごいな―――。

 走り終わった4年生たちの席に行くと、長男の姿はなかった。
 もしや、と思い、保健室を覗いてみると、
壁に向かって座り、目を冷やしている長男がいた。

「おーい、よくがんばって走ったね」
と窓から声を掛けると、彼は、ハッとしてこちらをチラリと見、
すぐに向こう向きになってしまった。
 その顔は泣きはらしたように見えた。
 少し離れたところから保健室を覗いていると、
長男は、右目を冷やし、左目の涙をひっきりなしに拭っていた。

 他の、けがをした子たちの賑やかな輪からひとり外れて、
たったひとりで泣いていた。
 と、私のそばを、何度もちょろちょろしている男の子がいる。
 胸のゼッケンには、いつも長男の口から出る名前が書いてあった。
 その子は、何度も自分の席と保健室の出入り口とを往復し、
中を覗きこんでは、じっとうちの長男のことを心配そうに見ていた。

「杉本君、こんにちは」

 私が話し掛けると、彼は恥ずかしそうに会釈して、
すぐに自分の席に戻ってしまった。

 もうすぐ2年生の次男が走る番なので、
後ろ髪引かれる思いで校庭へと歩いて行くと、
4年生たちはぞろぞろと教室へ引き上げていくところだった。
 杉本君は、長男の上着とレジャーシートを持ち、
保健室へと駆けて行った。
 そして、長男は杉本君に肩を支えられて出てきた。
 少しして、長男の担任の女の先生が飛んできて、
長男のもう一方の肩を抱き、3人でとぼとぼと歩いていった。

 私は、切なさと嬉しさとが混じった思いで、その後ろ姿を見送った。

 彼の人生は、もう始まっている。
 これから彼は、私たち大人がくぐり抜けて来た、
たくさんの青春の困難の中へと飛び込んでいくのだろう。
 頑張れよ。
 そして、杉本くん、ありがとう、
 そしてそして、そんな優しい友達と友情を築けるような子に
育ってくれてありがとう。

 当たり前だが、私から生まれた私の子は、
私とは違う心を持ち、私とは違う青春や人生を送っていくのだろう。

 淋しく、悲しく、嬉しく、切なく、
そして、うまくは言えないが、親にしかわからないある種の感情が
校庭に佇む私を捕らえてずっと離さなかった。

 (了)

(子だくさん) 2002.11.21 作 あかじそ