「レモネード」
小学2年生の息子が、急にレモネードを作ってくれと言う。
いつもなら「また今度ね」と言って、暗に断ってしまうのだが、「レモネード」という響きにハッとして、息子の顔を見た。
いつもいつも弟たちの世話に追われて、自分に見向きもしてくれない母親が、
突然、真顔で自分を見つめてきたことに、彼はびっくりしている様だった。
「レモネード」......これは私にとって特別な飲み物だった。
特に冬の夜に飲む、熱いレモネードは、私の心と体の芯を支えてくれている。
25年くらい前、母はフリーのトレーサーをしていた。
当時、小学2年生だった私の下に、幼稚園児の弟と、よちよち歩きの妹がいたが、
家で子育てしながらできる仕事をしようと、独学で勉強したらしい。
家事育児だけでも大変だっただろうに、コネもあって、かなりの量の仕事をこなしていた。
締め切り前になると連日の徹夜で、子供の目から見ても、母がめらめらと錯乱している事が見て取れた。
ダイニングテーブルの左隅に、ゼットライトを噛み付かせ、天板いっぱいに広げたトレーシングペーパーに
顔を摩り付ける様に、ザーッ、ザーッ、と、鋭い音を立てて何本も直線をひく。
その音は、まるで、私たち子供に、「寄るな」「触るな」「話し掛けるな」と叫んでい るようで、
夕飯の時間がとっくに過ぎていても、じっと息をひそめているしかなかっ た。
それでも何とか仕事が終わると、突然上機嫌になって、私たちをほっとさせてくれ た。
「お姉ちゃん、レモネードでも飲む?」
いつも弟や妹にかかりきりの母が、この時ばかりは私に向かって声をかけてくれ る。
緊張から解き放たれて、母に心の余裕が生まれたのか、いつも我慢ばかりの長女 に目が向いたらしい。
一種の後ろめたさを晴らすかのように、レモネードを作る母 は、優しかった。
「レモネード作って」
申し訳なさそうに言った息子の顔は、あの頃の私そのものだった。
「僕を見て」......きっぱりとそう言われた気がした。
「あったかくて、あまぁいの、作ろうね」と、微笑むと、息子は、ゆるゆると氷が
溶けていくようにホッとした顔になっていった。
おわり