11「それは趣味」の巻


 三男は、3歳まで、顔に皮膚がなかった。
目・鼻・口以外は、重症のアトピーで、皮膚がズル剥けだったのだ。
 一年中、顔は、血とリンパ液で濡れていて、
抱いている私の服の繊維がガビガビに貼り付いていた。

 そんな見た目が悲惨な三男だったが、
私は、長男でアトピーとの付き合いとは慣れていたので、
別段慌てたり悲観したりすることもなく、
「3歳過ぎれば治るでしょ」
と、何も気にしていなかった。

 ところが、だ。

 ある日、三男を連れて総合病院の待合室に居たら、
突然、物凄い勢いで30代位の主婦に肩をつかまれたのだ。

「洗剤、なに使ってる!」

 私には、『洗剤、なに使ってる』と聞こえたが、
見知らぬ人に、いきなり第一声でそのセリフはないだろうと思い、

「は?」

と、言うと、間髪入れず、
「だから! 洗剤は、何を使ってる!」
と、言う。

 わけがわからない。

 私は、ただ呆然としていると、

「どこにかかってる!」

と、また聞いてくる。

(何のことだよ)
と、憮然として黙っていると、彼女は、少しイライラして、

「どこの皮膚科にかかってるの!」

と、聞いてくる。
 そこで私は、はじめて、彼女が三男のアトピーについて何か言っているよう
だ、と気づいた。

「小児科には、かかっていますが、皮膚科には行ったことありません」
と、私が淡々と言うと、

「ひーーーーーーーーーー!」
と、小さく叫ぶ。

 私は、とっとと会計を済まして、このおかしな人から解放されたかったが、
風邪が流行っていて、会計の待合室には、人が座りきれないほどだった。

「まさか、合成洗剤使っていないよね」
と、顔が怖い。

「赤ちゃんの肌着用の洗剤使ってます」
と、私が言うと、
「はんっ!」
と、彼女は大声を出し、そっぽを向いて、嘲笑した。

「赤ちゃん用だろうと、何だろうと、界面活性剤入ってたら、意味ないじゃん
!」
と、私の顔の10センチ前まで顔を寄せて言う。
「生協の石鹸、使いなさいよ。売ってる場所教えてあげる、地図書いてあげ
る」

 彼女は、自分のバッグから紙切れを取り出し、
何かを猛烈に書き殴って私の手のひらにギュウギュウ握らせてきた。

「それから、皮膚科はね、(急に小声になって)ここはダメよ、ヤブ!」
そして、また新たにメモを書き殴り、
「ここ行って! 信用できる」
と、また私の手のひらに握らせる。

「それで? 除去は、どうなってる!」
 彼女が、また何か言っているが、いい加減うんざりしていると、
彼女も、私にうんざりし、
「除去食は、どうよ! アレルゲンは? 何と何と何!」
と、言う。

「乳製品と卵と小麦です」
 私は、つっけんどんに答えた。
 すると、彼女は、すばやく、
「もちろん、牛のモノ鶏のモノも、除去してるよね」
と聞く。
「はい」

 そうなのだ。
牛乳アレルギーということは、乳製品全般は勿論、
牛から摂れる物すべてにアレルギー、ということで、
卵アレルギーだったら、鶏から摂れる物すべてにアレルギー反応を起こす、
と、小児科の医師が言っていた。
 だから、長男も三男も、3歳過ぎるまで、
乳製品・牛肉・牛肉エキス・卵・鶏肉、鶏がらスープをはじめ、
ミルク入りパンや卵でつないだ練り物・ハンバーグなど、
たくさんのモノが食べられなかった。
「そんなの気にしないわ」
と、食べさせてしまうと、全身血まみれ、内臓も目の中も、
マッカッカッカッカ、の大地獄大会なのだ。
 それでも、うちはまだ「大豆」には強かったから助かった。
大豆がアレルゲンだと、味噌も醤油もダメなのだ。
 これは、キツイ。

 また、ハシカなどのワクチンや、市販の風邪シロップも、
卵の成分を原料にしているから、ノー・グッドなのである。

 彼女は、何も知らない若い母親に、愛の啓蒙をほどこそうとしているよう
だったが、
意外にもこの母親に少しの知識があるようだ、ということに、「チッ、つまん
ねえ」と思いつつ、
まだまだ助言攻撃の手を緩めなかった。

「まさかステロイド使ってないよね」
と、一層キツイ調子で言う。
「使ってます、ロコイドを」
私が言うと、彼女は、また、
「ひーーーーーーーーーーーーー!」
と、叫んだ。

「ステロイドは、即刻捨てなっさい!」
 もう、カンカンに怒っている。

「でも、あんまりひどいと本人耐えられないし、弱いのを、たまに塗るなら・
・・・・・」
私が言うと、
「とんでもない!」
と、私の頬を張らんばかりの怒りの表情になった。
「子供が可愛くないの? これ以上重症化させたいの?」  
 もう、目が充血して、プルプル震え、えらいことになっている。  

「これ、アトピーに効く水の仕入れ先! 飲んだり塗ったりね」
と言って、またメモを書き、私に握らせ、
「これ、アトピーの第一人者の書いた本!」
と言って、またまたメモ書きを握らせる。

 気がつくと、私の両手には、紙の束がどっちゃり握らされていた。 
 
「私の子供も、少し前までアトピーで、ずっと闘病していたのよ!」
「私達母親が子供を守らなくて、誰が守るの!」
「一緒に闘っていきましょう!」

 彼女は、だんだんと熱くなり、もう、感極まって泣いていた。
そして、紙まみれの私の手を握り、異常にゆっくりと言った。
「あなたは・・・・・・ひとりじゃあ・・・・・・ない!」

(いいから、ひとりにしてくれ!)

 私は、叫びたかったが、若さゆえ、憮然としているしかなかった。
彼女は、アカの他人にこんなにも熱心に指導している自分自身に酔って
いるようだったが、相手の母親、つまり私が、全然感謝も感激もしていないこ
とに、不満そうだった。

 三男の名前が受付で呼ばれ、私は、速攻で受付に行った。
彼女には、まだ話の続きがあったようで、今まで私と子供が待っていた場所
で、
こちらを凝視しながら私たちがそこへ戻るのを待っていた。
 私は、会計を済まし、財布をゆっくりしまいながら、
横目で彼女の姿をチラリと伺い、隙を見て、反対方面へ 猛ダッシュした。
 売店横の細い通路を抜け、喫煙室の裏をくぐり抜けて逃げた。
振り向くと、なんと、彼女が追いかけてくる。
 
 私は、更に逃げた。
アカンボの三男を抱いて、病棟まで階段を駆け上がり、
リハビリセンターの職員出入り口に飛び込み、
裏階段を使って、救急出入り口へと降りていき、
ひとけのない裏口から外へ出た。
 
 やれやれ、まいてやった。

 それにしても、彼女、
「子供を守るのは私だけ!」
とか言って、あれは、完全に自分の趣味ではないか!
 自分では気づいていないだけで、「アトピー対策」が、
趣味になっているんだ! 大好きなんだ!
「にっくきアトピー」とか言いながら、
もうアトピーなしでは物足らない人になっちゃっているのだ! 
 「アトピー依存症」なんだ、あれは!

 何が闘病だ!
「闘病」とか厳かな言葉を引っ張り出してきて、
物事を難しくして興奮している、頭でっかちなヤツ、大嫌い!
ふんっ!

 私は、肩で息をしながら、不敵に病院を振り向くと、
すぐ後ろに彼女が、やはり肩で息をしながら立っていた。

「んがーーーーーーーーっ!!」

 私は、のけぞった。 
 なんつう執念! なんつう体力!

 彼女は、だあだあと汗を流しながら、逃げた私を一言も責めず、
荒い息の合い間合い間に、こう言った。

「布団・・・・・・なに・・・・・・使ってる!」

 私は、小首をかしげ、にっこり微笑むと、
再び猛ダッシュで逃げた。

 悪趣味だ!
完全に、悪趣味だよ〜っ!

 駆けながら振り向くと、遥か後方で、
走る彼女は、メモを高らかに振って見せていた。


                         (おわり)