「92歳、女。歯医者ヤッテマス」の巻 1990年、春。左下の奥歯が、突如痛み出して、どうもこうも我慢て゜きなくなった。 ひーひー言いながら電話帳をめくり、一番家に近い歯医者を探した。 もう、泣きながらひーひー歩いて、路地裏にその歯医者を見つけた。 ものすごく立派な看板と、閉めきった正面玄関。 しかし、その横の勝手口が、そっと開いていた。 「すみませーん」 声を掛けると、反応がない。 「すみませーん」 もう1度呼ぶと、「ふあぁぁぁぁぁい」と、奥からビブラートのかかった 老婆の声が聞こえた。 「あのう、こちら○○歯科ですかぁ?」 と聞くと、 「さようでございますが・・・、診察ですか?」 と、品の良いお婆様が出てきた。 「あの・・・今日は、やっていただけるんでしようか?」 私は、老婆の肩越しに、3畳ほどの診察室を見つけた。 「はいはい、じゃ、中、入って座ってくださいませ」 老婆は、一旦奥へ入り、エンジ色の前掛けをつけて出てきた。 (まさか・・・・・・) そのまさかだった。 狭い壁だらけの部屋に、診察台が1組。 治療器具の乗った台には、うっすらと白いホコリが積もっていた。 老婆は、静かに手を洗い、コード付きの、風の出るスティック状の器具を手に取った。 すると、まるで、オハライでもするように、器具の台に満遍なく「シュー――――――」っと、 風を吹き付け、その辺のホコリを吹き散らした。 「さ、はじめますか」 私の、生つばを飲み込む音が聞こえたのだろう。 「92歳ですけどね、一応現役ですからね。大丈夫だと思いますよ」 と、[先生]は笑った。 「(思います)?!」 などと、固まっているうちに、ローバ・マジックによって、私は、いつのまにか口を開け、 いつのまにか削られていた。 キー―――――――ン、ンググ、と、何度かドリルはパワーを失い、そしてまた、 ンー―――――――――グッグッグキー――――――――――ン、と、息を吹き返す。 その間、ナミダ目を見開いて天井を見ていた私に、老婆はリラックスの言葉をくれた。 「その横の壁見て下さい。金沢に旅行に行った時のペナント」 私の顔の左斜め前25センチの壁面に、その三角のペナントが貼ってあった。 「はあ。きれいれふね」 と、削られながら答えたものの、リラックスどころか、ますます怖くなってきた。 「私は名古屋の方から回って行きたかったのに、娘が新潟の方から回るってきかなくて」 「ふぁあ」 「その娘が、やっぱり歯科医なんですけと゛ね、うちの後継いでくれなくってね・・・、 息子も歯科医なんですがね、やっぱり外出ちゃって・・・・・・。 おばあちゃんになってもなかなか引退できません」 「ふぁあ」 「思った様には、いかないもんです」 「ふぉーれふれー(そうですねえ)」 「・・・・・・芸術家でもない限り、感受性の鋭いのも、困りますね」 「ふぁ?」 「日常生活の中では、鋭すぎる感受性は、邪魔なだけです」 「ふぁい・・・・・・」 老婆の人生に、何があったのか知らないが、神妙な気分になってきた。 そして、気がつくと、歯の痛みは引いていて、治療も終わっていた。 「歯茎をね」 カルテに顔をくっつけて、そろばんで点数計算しながら、彼女は言った。 「歯は丈夫だけど、先に歯茎からやられていくタイプですからね。しょっちゅう、 親指で歯茎をグッグッと押して、血行を良くするマッサージをしてください」 くるっと振り返った彼女は、もう「老婆」ではなく、[ドクター]だった。 「次はいつ来たらいいですか?」 「いつでもいいんですよ」 それから、何度か通ったが、最初に名乗ったりすると、「水臭い」と叱られた。 2000年、秋。歯茎がやられている。 102歳の彼女は、まだ現役だろうか。 治療の最後の日、外まで見送りに出てきて、私が曲がり角を曲がるまで、ずっと見ていてくれた。 会釈すると、彼女は深深と頭を下げた。 角を曲がってから、もう1度戻ってみたら、うつむいてエンジの前掛けをはずしていた。 シャキッ、とまっすぐの[ドクター]が、くるんと丸まって、おばあさんになった。 (おわり) |