経 営スローガン |
子孫につなぐ農業を目指し 豊かな自然と共生しながら健康的に暮らす |
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耕 地 面 積 |
〔 田 〕約18.5ha 〔 畑 〕約18.5ha [合計 約37ha] | ||
栽 培 面 積 |
お米 | 18.6ha ななつぼし・きたくりん・きらら397・ ゆめぴりか・ゆきひかり・黒米 |
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小麦 |
11.0ha きたほなみ (ラーメン、うどん等の原料) |
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大豆 | 3.4ha とよむすめ (豆腐・味噌・豆乳などの原料)
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甜菜 | 3.3ha (グラニュー糖・オリゴ糖など砂糖の原料) |
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家 族 構 成 |
57歳57歳81歳 (H28年1月現在) |
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我が家のルーツ |
石川家は、寛治元年(1087年:平安時代)清和源氏の源 義家の子「義時」が河内国石川郡(現在:大阪府南河内郡千早赤阪村水分)に石川荘を領して「石川氏」を称したことに始まる。他氏との混同を避けるために「石川源氏」とも呼ばれていた。源平合戦の際に同じ源氏で平家方の源季貞に攻められて大敗を喫し、一族の多くを失ったが、源氏が平家を倒すと、勢力を回復し河内国南部に勢力を拡大した。鎌倉時代には南河内の一大勢力となったが、鎌倉幕府が衰え、河内国南部に楠木正成に代表される橘氏系の在地豪族が台頭すると、それに圧倒されて勢力を失い、一族の多くは故郷を離れて各地に離散した。その後、その末裔(まつえい)の宮太夫は、伊予国宇摩郡上野田村(現在:四国中央市土居町野田)に於いて先祖の形見の硯(すずり)を使って寺子屋を営む。明治維新後、混乱の中で貧富の差がひどいため、明治27年近次は屯田兵として北海道に移住。滝川村江部乙(現在:滝川市江部乙町)に入植。その孫昭は、分家して空知郡南幌町に移住し現在に至る。 |
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※このルーツは、 昭和55年愛媛県宇摩郡の先祖の墓が、公共工事で移設された際に遺骨と共に過去帳が発見され記されていたもの。既にその地に子孫は居らず、北海道に住む子孫へと墓と資料は受け継がれている。 ※「某」は名前不詳 筆者:源 後藤米湖 筆者:石川昭 フリー百科事典 『Wikipedia』
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