内田作品Q&A

私に寄せられたメールを紹介します。一応、メールの疑問に対する回答という格好で掲載しますが、私自身の疑問も判明した時点で掲載します。

本のお勧め有り難うございます。友達が倉敷にいるので、「倉敷殺人事件」なんていいかも。と思っています。
でも「〜殺人事件」ってタイトルにつくの、本当は私嫌いなんですよねえ・・・・やすっぽそうで。でも内田さんはお好きみたい・・・
なんかこだわりがあるのかなあ。タイトルはどうでも、結局は中身が良ければいいんだけど・・・損しているような気がするなあ・・・・

平成10年10月10日

内田先生は、40過ぎまで広告会社を経営していました。

小説を書くようになったきっかけは、将棋仲間から借りて読んでいた本を返すとき、「なんだこんなの!」とか言って返してたんだそうです。(^o^)

そのうち、「書けもしないくせに!」、「書けるさ!」ということになって書いたのが、デビュー作の「死者の木霊」でした。

確かに地名+殺人事件というのは、安直過ぎるとの批判もあったようですが、内田先生は、本を書くからには売れなければならないという考えをもっていて、それには、インパクトのある題名がよいと判断したようです。

これは、マーケティングのノウハウのようです。

ところで、あなたの言われるように損をしているという面も否定できませんね!
題名だけで判断する人も多いですからね。
私は、逆に○○殺人事件というのが好きで、(^o^)その題名に惹かれて内田作品に巡り会いました。

読んでもらうと分かるんですが...。                                          しょう       

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内田作品は主人公の「浅見光彦」の魅力でもっていると思います。トリックらしいトリックもなく、どんでん返しも簡単。

ミスリードはあるものの読む先から「これは違うだろう」とわかる。謎解きとしての推理小説には少し物足りない。

平成10年10月9日

そう、トリックのない推理小説なんです!(^O^)内田先生はトリックが嫌いなんですよ!

「ごくマニアックなミステリーファンの中には、前述のノックスが皮肉ったような「古典的探偵小説」でないと、ミステリーとして認めないような頑固さがあって、それはそれで、推理作家としては無視しがたい圧力となっているものです。
〜途中略〜
この世のものとは思えない大仕掛けなトリックに象徴されるような、児戯にも似た非現実性、ばかげた動機等々、常識の範疇から逸脱したようなことを書くには、良識と教養が邪魔になっているだけのことだと思うのです。
しかし、そう強がっているだけでは、ゴマメの歯軋りでしかないので、その主張を実戦し、作品にしてみたのがこの「終幕のない殺人」というわけです。」[浅見光彦のミステリー紀行第2集](101〜110P)

先生は、このように書いています。(^o^)

じゃあ、なんなの?て問われれば、一応「旅情ミステリー」とだけ言っておきましょう。

「探偵小説」→「ミステリー」→「ミステリ」と呼び名が変わって、それぞれに意味合いが違うようにも聞いていますが、内田作品はどの範疇にも入らないのでは(?)と思っています。

というより、そういう定義づけは無意味だと思っています。                              しょう

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光彦は誰かが誰かを批判したり、裁いたり、嘲ったり、ということに非常に敏感なのだと思います。

事件が解決に向かう時、自分が人を裁いていいのだろうかと悩んだり、犯人に同情をしてしまったりする探偵は他にもいますが、たいていはその時だけで、彼のように全編を通じて神経の細やかさを感じさせるキャラクターはなかなかいないのではないでしょうか。

これはきっと、作者である内田氏の気質がそうなのでしょう。

平成10年10月9日

そうなんです!これは、好みの問題なんですが、私は内田先生の人柄に触れるような思いで読んでいるんですよ。

一応、殺人事件があって、謎解きもあるんですが、事件にまつわる人間模様を描いているんだと思っています。

[追記]1999.1.25

内田先生は「性善説」なんだと思っていたら、思いがけずご自身でそのことを語っています。
「浅見には、たとえ犯人であっても、殺人を犯すまでに追い詰められた状況を思いやる優しさがある。彼も僕も性善説なのです。生まれたときから悪い奴っていないですから。」(MIME2月号)

そのほかにも、作品の中でそのことに触れた記述があります。

「人間が本質的に悪だとは、竹村はどうしても思いたくない。しかし、いくら努力しても、まともにやっていてはどうにもならなくて、あこぎなこしをやる者が繁栄するのが現実だ。そういう事実を何度も見せつけられていると、ごくふつうの市民が、ふとしたはずみで悪の道に踏み入りたくなるかもしれない。そうやって犯罪を犯したとしても、どうしてその者だけを責めることができようか。」(北国街道殺人事件)

『「警部の性善説はちっとも変わらないのですねえ」殺しを扱う一課の刑事のくせに、竹村は人間の本性は善であると信じている。』(沃野の伝説)

このことが、ややもすると批判につながることがありますね。つまり、光彦が犯人を司直の手に委ねず自らの意思で自決させるというのはおかしいというものです。ファンの中でも賛否半ばというところでしょうか?

ところで、「漂白の楽人」なんですが、この作品はちょっと趣が違いますね。つまり、「獅子の浜田の子」が生まれついてかどうかは判然としませんが、冷酷で欲深な人物として描かれています。そして、その息子もです。
地方銀行とはいえ、その銀行の重役として何不自由のない生活をしている人物。社会的に成功した人物なのに際限なく欲の塊として描かれているのですから、ちょっとした驚きです。
 およそ犯罪を構成するものに、動機があります。もちろん、作中の動機はそれなりに納得するのではありますが、その前の巨悪の首謀者が「獅子の浜田の子」というのは、なにかしら納得できないのです。

これについては、感想でも述べているのですが、いまだに納得がいきません。                 しょう

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『竹人形殺人事件』と『透明な遺書』とでは、『旅と歴史』の藤田編集長の名前が違っています。
『透明な遺書』では「藤田克夫」、『竹人形殺人事件』では「藤田信光」となっています。

平成10年12月20日

「日本の旅」藤田信光、広尾に社屋がある。(竹人形殺人事件、津軽殺人事件)「旅と歴史」藤田克夫、新橋に社屋がある。(志摩半島殺人事件、透明な遺書)

明らかに名前が違うから移籍したわけではないでしょうが、どちらも福井県出身です。

しかも、どちらも一時副編集長に降格しています。すなわち、「日本の旅」藤田は「竹人形」では編集長ですが、「津軽」では副編集長です。「旅と歴史」の藤田は「志摩半島」では編集長ですが、「城崎殺人事件」だけ副編集長です。

雑誌社がでてくる作品は次のとおりです。なぜ名前が違うのかは作者のみぞ知るです。(^^;

雑誌「P」塚原為男編集長 47歳「佐渡伝説殺人事件」

雑誌社 F出版社 宮沢(編集) 「美濃路殺人事件」

「旅と歴史」春日一行 「日光殺人事件」

「旅と歴史」藤田編集長(福井県出身) 「志摩半島殺人事件」

月刊「日本の旅」藤田副編集長「津軽殺人事件」

「日本の旅」藤田信光編集長 「竹人形殺人事件」

「旅と歴史」藤田副編集長 「城崎殺人事件」

「旅と歴史」藤田編集長
「隠岐伝説殺人事件」「横浜殺人事件」「金沢殺人事件」「日蓮伝説殺人事件「琥珀の道殺人事件」「神戸殺人事件」「平城山を越えた女」「紅藍の女殺人事件」「耳なし芳一からの手紙」「喪われた道」「鐘」「紫の女殺人事件」「薔薇の殺人」「熊野古道殺人事件」「朝日殺人事件」「坊ちゃん殺人事件」「須磨明石殺人事件」「斎王の葬列」「箱庭」「怪談の道」「歌わない笛」「札幌殺人事件」「イーハトーブの幽霊」「記憶の中の殺人」「華の下にて」「蜃気楼」「崇徳伝説殺人事件」

「旅と歴史」編集長 藤田克夫 「透明な遺書」                                      しょう