響きの自叙伝 

before ~ 彈眞空 ~ after


 私の生まれた昭和30年(1955)は、どんな年であったのだろうか?
 11月に自由民主党が結成され、第3次鳩山一郎内閣がスタート。同時に飛躍的経済発展を遂げる高度成長期(昭和29年12月(1954)~48年11月(1973)の第2次田中角栄内閣までの19年間)の始まりであった。 

【幼少期】        昭和30年~37年(1955~1962) YouTube-Photo動画

 <母によると、幼児のころは、よく金魚と遊んだという。祖父が作った大きな縁台の上で、傍らの金魚鉢に手を突っ込んで、ジャブジャブと半日ぐらいおとなしく遊んでいたらしい>

 昭和37年(1962)、ベンチャーズ初来日、小学一年生であった私は、のちに、Guitar購入費をせびる、叔父の家のテレビニュースで知った。昭和40年(1965)、二度目の来日で、エレキ・ブームが巻き起る。
 当時、生家の裏にあった木工所の三男が、エレキ・バンドを組んで、工場をスタジオ代わりに"ギンギン"の音で弾きまくっていた。山と積まれた樫の木の蔭から覗き見た。エレキ・ギターLive鑑賞の初体験である。

 昭和39年(1964)東京オリンピックが開催された。私は、行儀がよくないからと、数年前から書道を習わされていて、その時の先生が、オリンピック関連の書道展に参加したので、弟子の我々も出品し、日本武道館に展示された。「日の出」と書いて優秀賞を受賞したのだが見つからない。賞状を持った写真はアルバムにあった。
 
 
 昭和40年(1965)、丸穴のGuitarと呼ばれていた、クラシックとフォークの中間のような怪しげなGuitarを手に入れて、「一週間で弾けるギター」なる教則本で練習した。確かに、一週間で弾けた! 少しは---?
 この頃、二つ上の従兄は、なかなかの腕前で、私の家に来ると、なんやかんや蘊蓄を述べながら教えてくれた。
 
 昭和41年(1966)、ビートルズ来日。

 昭和42年(1967)、本格的なClassical-Guitarを買うことができたので今までになく熱心に練習したのだが、ギタリストになる気はなかったのであまり上手くはならなかった。
 学校でも、「ヤスオちゃん、しっかり歌ってね!」と、米良先生にしょっちゅう、愛情たっぷりに叱られた。合唱の時は、軽快に指揮をされていた米良先生。今でも、目を閉じて想い起せば、鮮明によみがえる。

 昭和46年(1971)~高校の同級生・工藤憲夫の影響で、Hard Rock Guitarを始めた。ジミヘン(Jimi Hendrix)やクリーム時代のエリック(Eric Clapton)のフレーズを必死でコピーした。
 <この時期に身に着けた耳コピーの技術は、尺八家になってからもたいへんに重宝している>
 昭和47年(1972)~ 二年間、授業の後、ビル清掃のアルバイトをやった。憲夫も含めて合計4人の同級生が、同じビルで清掃のバイトをしていた。それぞれ目的があってのバイトだったが、私の場合は、最新のステレオとエレキ・ギターを買うためだった。
 この頃、憲夫の友達が企画したロックコンサートを聴きに行った。ゲストで出演していたJazz系バンドの即興演奏が脳裏に焼き付いた。<たしかフリー・ジャズと呼んでいたと記憶している>
 卒業後も、そのままバイトを続けていたのだが、会社の上司から、「空調管理で正規社員になってはどうか」と言っていただき、音楽学校に通いながら仕事をさせてもらった。

 <私の生涯で唯一会社員という肩書を戴いた、東京ビジネスサービス株式会社(TBS)での二年半だった>

 昭和49年(1974)尚美高等音楽院(現、尚美ミュージックカレッジ専門学校)で、渡辺香津美師からJazz Guitarの手ほどきを受けた。オーソドックスなスタイルである。
 昭和53年(1978)高柳昌行師の主催する「煉塾」に入った。師の影響もあり、邦楽を含めた民族音楽からアヴァンギャルド芸術全般を、できる限り、聴いて、観て、実践したが、御多分に漏れずLiveは常に持ち出しの大赤字、そのうえ、生業にしていたパブでのウタバン(歌手の伴奏)も、クビになった。
 <今から思えば、単調な伴奏に飽き足らず、やたらと凝った和音やリズムをやったので、歌手は歌いにくく、客はくつろげずで、オーナーに苦情が殺到したのであろう --- dakedo-私がクビになった数年後、店はつぶれた>
 幸運なことに、翌月にはミューズ音楽院(現、ミューズ音楽院/ミューズモード音楽院)の院長に拾ってもらい、事務関係のバイトができた。

 <家では、専らアイラー(Albert Ayler)やベイリー(Derek Bailey)などのフリー系の音楽と古今東西の宗教音楽及びわらべ歌を聴きまくった>

 ´70年代後半のポップミュージック界では、クロスオーバーと呼ばれたフュージョンの前身の演奏形態がブームになっていて、それを教える科を最初に設立したのがミューズ音楽院だった。入学してくる生徒の要請にベテランの講師陣は対応しきれなくなり、同年代の私に声がかかった。
 昭和52年(1977)から57年(1982)まで、ここでGuitar科と楽理科の常勤講師をした。

 <高柳昌行師は、講師を職業とすることを良しとしなかったので、直接指導を受けていた飯島晃ともども、かなり厳しく指導された>

 この頃、野辺邦治さんの製作したClassical-Guitarで、当時流行っていたアコースティックなGuitar曲を演奏した。
 ミューズ音楽院の同僚であった石山経麻呂(Guitarlist・ドリーム音楽院院長)さんが、当時一世を風靡したスーパーギタートリオ等の演奏をキッチリとコピーして教えてくれた。所謂速弾きによるImprovisationである。

【Guitaristの頃】      昭和56年(1981) YouTubePhoto動画 Guitar Duo

 <この経験が、後に反面教師となり、普化宗尺八の一音成仏-イットンジョウブツ-の片鱗を理解する一助となった>

 昭和56年(1981)の終わりと共に、オーソドックスな演奏に別れを告げ、Improvised Musicに没頭した。この種の演奏は、学校で教える類のものではない。前衛的発想による発言が多くなると、当然のごとく経営サイドとぶつかる。音楽そのものを追求する時間も、精神的余裕もなくなり、肩から指先にかけて鈍痛と痺れがおきた。頸肩腕障害の症状である。
 <この時は、講師の仕事のストレスによる障害だと思っていたが、子供のころから感じていた素の感性と理念で作り上げた感覚の不一致からくるストレスではなかったかと、いまでは思っている>

 <私は、所謂英才教育を受けたわけではないので、Jazzというよりも、西洋音楽全般に対して、先に挙げた不一致を常々感じていて、どんなに上手くできた時も、心身共にピタッとくることはなかった>

 この時期は、Voice performanceの松原志保子さんとのDuoで、Live活動した。

                 昭和58年(1983) YouTubePhoto動画 Guitar&Voice

 昭和57年(1982)講師の職を辞し、再びバイト生活になった。

 Alto Saxphoneの訓練をして、JazzのStandard曲を素材にした、4beatのConboを組んで活動した。

【Saxsophonistの頃】  昭和59年(1984) YouTubePhoto動画 Jazz conbo Summertime
    
    昭和59年(1984) YouTubePhoto動画 Jazz conbo You Don't Know What Love Is

 昭和59年(1984)からAlto Saxphone、Moog synthesizer Taura'sを基軸に、大音量のImprovisationを開始。当初三人のグループでスタートしたが、すぐにソロになった。

                昭和60年(1985) YouTube動画 Free Improvisation

 <この経験も後に反面教師となった。多くの尺八家が音量を得るために、楽器を改造し、自然な音色を犠牲にしていたのだが-音量コンプレックスによるものと考えられる-私の場合は、初めから独奏において音量の大小は意味をなさないと解っていたから、何のためらいもなく、普化宗尺八地無し延べ管に没頭できたのである>

 昭和59年(1984)~日本人という事を、ことさら意識し出した時期である。
 和楽器を使うことを決意して、いろいろと調べてみた。なんと自国の伝統音楽に関してほとんど無知であることに気がついて唖然とした記憶がある。

 <いまなお続くGHQによるWGIP - War Guilt Information Program - が、政治・経済・教育・文化等、日本のあらゆる方面を浸蝕しつくした時代だった>

 <団塊世代の欺瞞に満ちた反体制芸術運動が崩壊して、世はバブルに沸いていた。私自身も、音との係わり方を改めて、真剣に考えなければならなかった。それまで真剣でなかったわけではないが、惰性で続けていたところも否めない>


【普化宗尺八との出会い】
 昭和60年(1985)「高橋空山 竹の響き」というLPレコードに出会った。1970年にポリドールで録音されて、お蔵入りとなっていた音源を、弟子の藤由雄蔵(藤由越山)が自主制作したものであった。
 当時住んでいた杉並区の安アパートで針を落とした。初めて聴く普化宗尺八の音色である。
 尺八の音色といえば、正月にマスメディアから流れる「春の海」と武満徹の「ノーヴェンバーステップス」の音ぐらいしか知らなかった頃である。その響きに戸惑いを覚えた。後に、「妙なる響き」云々形容したのだが、正直なところその時は、良し悪し・好き嫌いなどの言葉は一切浮かばなかった。「虚霊」が終わって「真跡」に移る無音状態の時に、金色の帯状の抽象イメージが脳裏に浮かんで、ぐるぐる回っていた。プツン・プツンというポップノイズで我に返る。放心状態のままA面が終わった。ロゴスとパトスの未分状態を実感した瞬間である。 
 
 
          虚霊(Kyorei)彈眞空個展2017皐月の会場朔風庵にて。YouTube動画

<二項対比があたり前として演奏していた私にとって、この体験は、実に新鮮で、衝撃的であった。概念で理解したのは、福岡正信師の「無の哲学」を読んだ後だったと思う。>

 <幼いころから集中しすぎるきらいがある。6才の夏、遊びに行く途中、大工さんが、長い柱の鉋(カンナ)がけをしていた。シュルルルル---と、何とも心地よいサワリの利いた音と共に、数ミクロンであろうか、薄い鉋屑が湧き出て、フワフワと舞い落ちる。これが程よいテンポで繰り返される。見入っていた。何本目かのとき、チラッと目が合ったが、それきり、互いの存在には無関心で、それぞれに集中した。昼過ぎから夕方まで。>

 「竹の響き」を聴いて以来、尺八の音が頭から離れなくなった。
 
 とにかく吹いてみようと思い、尺八を買いに行くと、「キンコですか?、トザンですか?」............?
 近くの先生を紹介してもらい習うことにした・・・が、なんか音色がちがうな~~~?
 それもそのはず、空山師の吹く尺八は、地無し延べ管という古式のもので、ご自身で作ったものであった。
 
 この音楽は、片手間ではできない。

 悶々とした日々を送りながら、悶々とした演奏をしていた或日、東京で仕事をしていたケサバラル・マレクというネパール人と知り合った。「今年の秋に故郷へ帰るので、一緒に行かないか」と誘われた。

 <何か大きな変化や行動を起こそうかどうか迷っているときに、それを決定づける出来事が起こるとは、よく言われることだが、意識の変革は、「虚霊」を聴いた瞬間であり、実在としての行動は、ネパール(Nepal)・インド(India)尺八行脚敢行である>


【ネパール・インド尺八行脚敢行】
 昭和62年~昭和63年(1987-1988) ネパール(Nepal)・インド(India)へ。
 心身共に分岐点に立っていたこの時期、尺八行脚の第一歩を踏み出した所が、ネパール(Nepal)の首都、カトマンズ(Kathmanzu)だった。
 ケサバの紹介でインターナショナル ゲスト ハウス(International Guest House)に逗留。
                  昭和62年(1987) YouTubePhoto動画 Nepalにて
 
 <バックパッカーの泊まるゲストハウスは、たとえ個室であっても、音は筒抜けなので、尺八を吹くのは専ら屋上だった。或る日練習しようと上がっていくと、五十がらみの男がいたので、会釈をかわして一時間ほど吹いた。次の日も同じ、また次の日も・・・三日目に話しかけた---よく会い、ますね、どちらからきましたか?---返事がない、不思議そうに顔を見ていたが嫌がってる様子はなかった。次の日は、彼の方から近づいてきて、何やら手ぶりをした。---なるほど、てっきり日本人と思っていたが、そうではなくて、言葉が分からなかったのかと勝手に思い込んだ---が、そのあと渡されたメモを見てびっくり---私は、耳の全く聴こえない金子義償というものです。これからインドに入ろうと思うのですが、一緒に行ってくれる人を探しています--->
 <金子さんは、画家で、少し前に亡くなった後援者の供養を兼ねた旅とのことでした。これが縁で、以後4ヶ月近く一緒にインドを旅した。インドの写真で、アングルのいいものは、すべて金子さんが撮ってくれたものだ。>

 昭和62年(1987)11月、ガンジス川沿いにあるヒンドゥー教の一大聖地、ヴァ—ラ—ナスィ—(Varanasi)に移動。この地を訪れる日本人バッグパッカーが、一度はお世話になる「久美子の家」に逗留。
 
              昭和62年(1987) YouTubePhoto動画 Varanasi Indiaにて-India-1

 Varanasiの北約10㎞の所に釈尊が初めて教えを説いた初転法輪の地、Sarnathがある。ここを最後にクミコハウスを離れて、Buddha-gayaへ。苦行で瀕死のシッダールタに乳粥を供養して命を救ったといわれるスジャータの村がある。有名なマハーボディ寺院や悟りを得た菩提樹等々。
 ブッダガヤからプリー~マドラス(現チェンナイ)~ケララ州・コヴァラムビーチ・マドゥライ・コーチと巡った。

              昭和62年12月~63年(1987.12~1988) YouTubePhoto動画-India-2
    Buddha-gaya-Puri-Madras(Chennai)-Kerala州・Kovalam beach・Madurai・Kochi

 ブッダガヤ(Buddha-gaya)の日本寺で除夜の鐘を撞いた。
 <梵鐘というのは、鐘の音だけでなく釣り下げている部分の軋みが程よいサワリ音を発していて、大きさに応じた基音の他数多くの倍音が混然一体となって独特な響きを放つ。子供の頃から梵鐘を撞くことは幾度となく経験していたのだが、1987年12月31日の体験は特別の意味を持った---というのは、同時に鳴る打撃音・楽音(振動する基音と倍音)・軋みなどの噪音が、それぞれ独立した音として時差をもってイメージできたことと、それが独奏尺八の響きの観念とリンクしたからである。授記音聲曼陀羅「虚空」の音を捉えた!

    昭和63年2月前半-1(1988.2)YouTubePhoto動画-India-3 / BGM : 授記音聲曼陀羅 虚空
          Kochi-Goa.Pnaji-Bombay(Mumbai)_Elephanta Caves

 コーチン(Cochi)で伝統舞踊劇カタカリ(Kathakali)を鑑賞した後、かつて海のシルクロードとして栄えたゴア(Goa)へ移動して数日滞在。北上してボンベイ(Mumbai)では、インド門の前に建つ、今世紀の最高建築のひとつとされるタージ・マハルの名を冠したホテルで数人のバッグパッカーと会食。エレファンタ島(Elephanta Caves)石窟群観光と目まぐるしく動き回った証拠写真が残っているのだが、ほとんど記憶にない。理由は明白だ。尺八のことを考えていたのだ。日本寺で梵鐘を撞いて以来ず~~~と、甲乙・陰陽自在の音聲イメージを如何に具体化したらいいかを考え続けていたからである。

         昭和63年2月前半-2(1988.2)YouTubePhoto動画-India-4 / BGM : 真蹟
         Ajanta Ellora

 <アジャンタ(Ajanta)・エローラ(Eloora)の石窟院の残響は最高だった。十年後(1998)にCD録音を行った授記音聲曼陀羅 虚空の乙音と甲音の入れ替わるタイミングと間合いは、この残響を想定して設定したのだが、吹奏技術の未熟さもあって充分な成果をあげられなかった、が、しかし、原点の記録として個人的には最も重要なものとなった>

 <Photo動画 India-1~6のBGMは、一部を除いて総てCD録音時と自叙伝起稿後に録音したものであるが、残響(reverberation)は、エローラ石窟院の印象に近づくようにかけた>

     昭和63年2月後半-1(1988.2)YouTubePhoto動画-India-5 / BGM : 授記音聲曼陀羅 虚空
         Jaisalmer-1 キャメルサファリ

 ラージャスターン州(Rajasthan)ジャイサルメール(Jaisalmer)は、タール砂漠の真っただ中にある町。キャメル・サファリと呼ばれる駱駝で砂漠を巡るツアーが人気で、私も行ってみた。パキスタン人とインド人のガイド(Camel Driver)と共に~月の砂漠をはるばると~~~のように優雅にはいかない。尻は痛くなるし、手綱を握る手は痺れてくるしで、くたくたになって横になると、分厚い布団を三枚かけて寝ろという。このくそ暑いところで何でだ?.....朝方寒さで目が覚めた。昼間45度あった気温が氷点下近くになっていたのだ。

 <三十年経った今、懐かしく思い出すのは、こんなことばかりだが、パキスタン人のガイドが吹いた手作りの笛の音は、砂漠の夕暮、夜空の星屑と共に印象深くよみがえる>

     昭和63年2月後半-2(1988.2)YouTubePhoto動画-India-6 / BGM : 即興的Composition
        Jaisalmer-2  辻芸人一座

 12世紀にラーワル・ジャイサルによって築かれたといわれるジャイサルメール城。城下には様々な芸人がいた。
 インドというと、シタールとタブラのコンボというイメージだが、城下町の辻芸人は歌と踊りが中心で、太鼓と弦楽器が伴奏していた。「笛(尺八)を持っているならここで吹け!」とリーダーの弦楽器奏者に促され飛び込み乱入演奏。夜、ゲストハウスのレストランで食事をしていると、彼がやってきて優雅な独奏曲を聴かせてくれた。チップを払おうとすると、チップはいらないから「この楽器を買ってくれ」という。ヴァイオリン系の弦楽器は弾けないし、まだ旅を続けるので荷物を増やしたくないというと、「ノープロブレム、プラクティス・プラクティス」・・・?たぶんそう言っていたと思う。「第一明日からどうやって稼ぐ?」というと、またまた「ノープロブレム・・・・・・・・?」他にもあるし、作れるというようなことを云って、なかなか帰らない。旅慣れてくるとこういうやり取りも楽しめる。弾き方を教わったりしながら小一時間ワイワイやって、チップを増やして、「そろそろ寝るから」と・・・「OK」 。だいたいこんな感じで一日が終わる。

 ジャイサルメール(Jaisalmer)~ジョードプル(Jodhpur)~ジャイプル(Jaipul)~ア—グラー(Agra)とローカルバスを乗り継いで、最初に足を踏み入れた地、ヴァ—ラ—ナスィ—(Varanasi)の久美子ハウスに戻った。
そして1988年3月1日、いよいよインドを離れる時が来た。
 午前8:33分、一路ポカラ(Pokhara Nepal)を目指して出発。 <出発直前、突然の豪雨、稲妻が走った>
 オンボロバスで威勢よく出発したもののIndiaからNepalという別の国に行くわけだから、まずは国境で出国手続きをしなければならない。当時は書類のほとんどが手書きで、賄賂を渡さないとなかなか書いてくれない。
 結局一泊して、翌朝やっとNepalに入れた。

 <この当時、国境の役人は例外なくスレていて、そこに商人がぶら下がっていた---今はどうだろう? 唯一の救いは、雷雨での出発であったが、夜は嘘のように晴れて、美しい満月を拝めたことだ>

 ポカラに戻るとすぐにホーリー祭が始まった。ヒンドゥー教の春の訪れを祝う祭りで、ヒンドゥー教徒の子供たちは、前日から浮足立っていた。

     昭和63年3月(1988.3)YouTubePhoto動画-Nepal-1 / BGM : 朧月夜

 ヴァ—ラ—ナスィ—(Varanasi)から一緒に来た日本人のバッグパッカーとカトマンズ(Kathmanzu)へ移動。
 荷物を預けておいたインターナショナル ゲスト ハウスに戻った。
 帰国が迫ってきたこともあり、カジノへ行ったり、ゲストハウスの宝石を見たりして数日を過ごした。
 <1846~1951までネパール王国を支配していたラナ(Rana)家の財宝が時折売りに出されるのだという>

 昭和63年3月9日(1988.3.9)Royal Nepal Airlinesでカトマンズ~香港へ入り、3月11日Japan Airlinesで帰国。
 五ヶ月に及ぶ旅を終えた。

           地付き継ぎ管の頃 昭和60年~63年(1985-1988)YouTubePhoto動画
 <音色に疑問を感じながらも、昭和60年12月~63年8月 (1985-1988)までは、地付きの尺八を吹いた。演奏会や講習会にも参加した。
 手ほどきを受けたり講習会でアドバイスをいただいたのは、渡辺峯水・永鳥天士・田嶋直士・横山勝也・小山峰嘯といった琴古系の各先生>


【日本に戻る】

 帰国後すぐに藤由越山師に連絡を取り、教えを請いたい旨伝えたところ、「一度演奏を聴きに来なさい」と云われた。 それでは!ということで<風呂屋の二階コンサート???>なるタイトルだったと思うが、銭湯の二階の広間で行われた会に行き、初めて普化宗尺八の生音を聴いた。

 <想像していた以上に静謐で安定した音色は、伝統音楽の神髄を醸しだしていた>

 <このとき取材に来ていた雑誌の記者が「先生、少し音が小さいようですが?」と言っていたのを思い出す! 当時既に一般的になっていた「バホーバホー べーべー ブーブー」が尺八の音という固定観念で聴いたのだろう>

 この会には、シタールや琵琶の演奏家も来ていて、打ち上げではマニアックな観客たちが、喧々囂々蘊蓄を披露しあって面白かった。
 さっそく入門を申し出たのだが、あまりいい返事が返ってこない。 「今度※スペース仙川でLiveをやるから聴きに来なさい」ということで、この日の入門は許されず。

 ※スペース仙川---琵琶奏者の吉田央舟(よしだおうしゅう)が経営していた芝居小屋で、東京・調布市の仙川に在り、主に「耳なし芳一」や「小督」というタイトルのひとり芝居を上演していた。

 <央舟先生は、元眼科医で、若いころからやりたかった琵琶の語りや一人芝居を、60歳を迎えたことを契機に専業にした人です。 サラリーマンであれば定年の年だからと医師免許を返上---つまり医師廃業---して琵琶法師となった社会的責任感とユーモアを兼ね備えたすばらしい方でした>

                吉田央舟一人芝居(耳なし芳一)YouTube-1

                 吉田央舟一人芝居(耳なし芳一)YouTube-2

 スぺ仙で知り合った唐澤淳一さんという建築家から、トルコの神秘主義者のネイ独奏のカセットテープを借りたのですが、その後ご無沙汰しているうちに連絡が取れなくなってしまいました。
 大事に持っているので、いつの日かお会いしてお返ししたい。
              モスクで録音されたと思われる「ネイ」の独奏YouTube

 今日こそは弟子入りを果たそうと「スペース仙川」に出向いて演奏を聴いた。 演目は「供養」などの普化宗尺八楽と抒情歌のメドレーなどバラエティーに富んだものだった。
 終わってから、再び「弟子にしてください」と懇願。 すると質問が返ってきた。 「尺八の筒音がCisの場合、ツの音は何になる?」 ???・・・。 ドイツ音名が出てくるとは思ってなかったので、ちょっと戸惑ったが、「Eです」と答えると、
「ふ」・・・。 「今度自宅に来なさい」  この日も入門許可は出ず。

 <この日、越山師に吉田央舟先生を紹介していただいた。 三年後、スペース仙川企画の一員として全国で公演する事になるのだが、この時は思いもよらなかった>

 昭和63年(1988)4月23日(土)
 指定された午後一時、越山先生宅訪問。
 すでに稽古が始まっていて、後に兄弟子となる諸先輩方の音が中庭に響ていた。
 稽古が終わると、先生がおもむろに立ち上がって「今日から田中君が仲間に加わるので、みんなで※山原船に繰り出そう!」といって、出掛ける用意をさせた。
 この時は何が何だか分からなかったが、とにかくこの日、私は藤由一門の門下生となったのである。

 ※山原船(やんばるせん)---沖縄三線弾き語りの名手、新里愛蔵さんが東京・中野でやっていた居酒屋。

 当時、越山師の主催していた会は、「十笛会(じゅってきかい)」であった。 <|タテ・― ヨコ >縦横無尽に吹き熟そうという趣旨の命名だったという。
 看板に偽りなく、縦は、尺八・洞簫・短簫・ネイ・ケーナ等、横は、篠笛・能管・龍笛・ディズ・シャオ等、みごとに吹き熟しておられた。

 入門はしたものの、地付きの継ぎ管と木管しか持っていなかったので、何とか「地無し延べ管」を手に入れようとほうぼう訪ね歩いたが、ままならず!
 
【稽古】 昭和63年(1988)5月3日(火・憲法記念日)
 初めての稽古日なので、時間よりだいぶ早く着いたのだが、すでに一人の兄弟子が口慣らしをしていた。
 「ずいぶん早いですね!」.....?。 ニヤっとして「わたしは常に早い!」.....と。
 謎はすぐに解けた。近所に住んでいて家族ぐるみの付き合いとのことでした。

 <この方は、十笛会最年長の大先輩で、彼の東証一部上場企業・〇〇製菓の部長をされていました。 或る時見せてくれた社内報の一節~~~(女子社員)~~~早朝の部長室から時折漏れ聞こえてくる笛の音・・・ブキミ~~~ ちょっとショックだったかもネ。
 いずれにしても一番に出社して尺八の練習するなんてところは見習いたいものだ!>

 稽古にあたって、二つの約束事があった。

 一、楽譜を使って教えるが、門人以外には渡さないこと。
    
 一、これまで習っていた先生との関係を整理しておくこと。
    <過去に、弟子を盗られた云々言ってきた人が居たそうな!>

 「いままで吹いてきた曲を吹いてみなさい」ということで、調子を吹いた。
 音色を気にしながらの、恐るおそるの音出しは、なんとも貧弱に響いた。

【供養】 
 最初に習った普化宗尺八楽は、供養という曲だった。
 死者を弔うために吹くというこの曲が、私にとって生涯忘れることのできない一曲になったのは、二か月後の11月2日、労災事故により無念の死を遂げた父の遺影とともに脳裏に焼きついたからである。
                      供養之曲-YouTube

【昭和~平成へ】 昭和64年(1989)1月7日(土) 天皇陛下ご崩御

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