アタックトムと呼ばれた男
語られざる『日米安保』の真相

第1回 60年安保・自衛隊治安出動の「秘密」

1960年6月15日。日本を震撼させた安保闘争のピークの日、
治安出動への待機体制にあった自衛隊の中に、血を騒がせていた
ひとりの男がいた。デモ隊鎮圧のため、電気ムチや戦車に催涙ガ
スを搭載することを考案するこの男こそ、後に「アタック・トム」
と呼ばれ、日米安保の裏でスパイ顔負けの秘密工作をやってのけ
た男だった−−−。

シーン1:95年9月初旬 永田町近くのホテル

 9月初旬の昼下がり、一人の初老の軍事アナリストが、永田町近くにあるホテルの一室に招かれていた。数人の政治家
たちが周りを囲み、やがてうやうやしく薄い文書が差し出された。
 軍事アナリストは、無造作に目を通していく。その文書には、今後日本が取るべき防衛のあり方についての構想が記さ
れていた。さる研究機関にも委託し、充分に練り上げられたものだという。
 だが、軍事アナリストは、いきなり文書をまっぷたつに引き裂くと、くしゃくしゃに丸め、そばにあったゴミ箱にぽい
と捨てた。政治家たちが唖然とするなか、彼は口を開いた。
「たしかに、基本的にはいいことがいっぱい書いてありますな。しかし現実離れした構想ばかり書いてあり、こんなの読
むに値しない。我々の国益を守るために米軍に依存しなくてもいい、コンパクトで完結性のある独立した防衛力を持つ、
とある。しかし、それは具体的にどんな内容なんですか。空母は、爆撃機を持つのですか。それは国民も、中国、米国も
イエスとは言わないでしょう。金もかかるし、許されるはずもない。また、韓国との防衛協力体制を作るともある。あそ
この国民感情を考慮すれば、今すぐできると思いますか? ましてや集団的自衛権は、憲法との絡みで、むつかしいでし
ょう。夢みたいなことを言っても駄目ですよ」
 複雑な表情を浮かべる政治家たちに向かって、彼はさらに言った。
「政治家の方に限らず、人間は認識と判断との区別がつかない。その間に邪心や過大な期待などが混ざるからです。たし
かに軍事を考えることは、性悪説に立つ。最悪のことを考えなくてはならないからです。しかし、どう戦争の危機を防ぐ
か、それを考える時には、クールに、軍事戦略をまず立てなくてはならない。この文書には、まったくそれがない。例え
ば、西表島(いりおもてじま)に2個中隊、約400〜500人の敵部隊が上陸し、占領したとする。日本としては奪回せな
いかんでしょう。その時、どうしますか?」
 政治家の一人が、言った。
「そんなの空から爆撃して潰せばいいでしょう。」
 彼は答えた。
「敵は、百も承知で、穴を堀り空爆から身を守りますよ。その時、どうやって上陸しますか?敵は港も占拠している状態
ですよ」
 政治家達は、いちように腕を組み考え込んだ。
 彼は、言った。
「日本の島の周囲は、崖っぷちだらけです。上陸するには、垂直な崖をも兵隊が登れ、戦車などの兵器も上げることので
きる機能を持った上陸用舟艇が必要です。日本には6800の島がある。うち住民がいるのは430。それらの島の半分は外
洋に接している。つまり国境です。その防衛線が侵された時どうするかひとつとっても政治レベルでの戦略の合意がない」
 政治家たちの顔に、さらに複雑な表情が浮かび始めた。
「確かに今は、買い物をするための予算獲得になっているからなあ」
 自嘲気味の声が聞こえた。
 話は続いた。
「だから軍事の話というのは、まず何をどう守るかという軍事戦略がないと駄目なんですよ。それが欠落している防衛計
画は意味がない。同じ敗戦国のドイツでも“ウオーニングタイム”の構想が整えられている。“警告期間”です。戦争の
危機を感じた時点から1年をかけて兵器の増産をして、準備をする。戦争なんて、ハイ今からやりましょうなんて簡単に
は事は運ばないんですよ。防衛だってそうです。ひとつの例でいえば、海上自衛隊の潜水艦の魚雷だって、ふだん爆薬は
分離して保管しているから、実際に発射できるまでに半年かかる。そういう実態を、政治家の方々はご存じないから、現
実離れした話ばかりがまかり通る。」
 彼は、国際貢献の話にも言及した。
「さる政治家の方は、いずれ国連軍ができるだろうから、待機軍を創設すべきだと。今、国連に金がない時に、そんなこ
とが可能ですか?アジアで局地的な紛争が起こった時、湾岸戦争のように多国籍軍みたいな形にならざるをえないのが現
状でしょう。国連軍の創設なんて、夢のまた夢みたいな話を考えるよりも、まず自国の軍隊を整備しなさいと言いたい。
今の抑止戦略型の自衛隊では、独力ではまったく防衛もできない。編成、装備、国内法も整備されていないし、戦略もな
い。米軍の援助なしには、自国の防衛もできないのに、どうやって海外に出ていけるんですか。カンボジアのPKO派遣の
時でさえ、人、物、訓練、そして兵站もなく、陸海空もあわてふためき、中はひっくりかえっていたのが実態ですよ。ま
ず米軍の援助を受けなくてもいい軍隊にして初めて多国籍軍に参加することを考えるべきです。しかし、いっぽうで果た
して、米国がそういう行動を許すか。戦後、米国の対日戦略には強大な軍事国家にしないという柱がある。それは冷戦終
了後も依然として残っていることを承知していないといけない。経済大国になり、やがて国連の常任事理国になるからと
いって、円経済圏を作ろうとか、強大な軍事力を作ろうとか、思い上がった独立路線を取り始めれば、必ず米国は封じ込
めに入る。かつて大日本帝国が、日英同盟を破棄されて、世界から孤立した同じ轍を踏むことになる。舵取が、実にむつ
かしい時代になったことを認識する必要がある」
 一気呵成に語るこの軍事アナリストの話を、大政党の政治家達は口を開けながらただ黙って聞いていた。
  そして、
「たしかに、私たちには軍事戦略がなく、見当はずれのことを考えていたようです・・・・・・」 と答えるのがせいいっぱいで
あった。
  いっぽう、この軍事アナリストも心のうちでつぶやいていた。
<やはりユニフォームを脱ぐと、話しやすいものだ。これが現役の時なら、政治に口を出すのか、と大変な騒ぎになってい
ただろう・・・・・・>
  この軍事アナリストの肩書には、『米国デュピイ戦略研究所東アジア代表』『英国戦略研究所所員』とある。彼は、今
年に入り『中国内戦』『戦術と指揮』という2冊の著書を上梓した。特に『中国内戦』は中国内情にひときわ関心の強い台
湾でも評判になり、すぐに翻訳された。のみならず台湾に招待され、李登輝総統が渡米し緊迫した情勢の中で、台湾軍副司
令官から直接、情報交換を求められた。
 極東アジアの軍事情勢についての精緻で高度な情報・分析は、彼がかつてその職務にあった経歴からしても当然のこと
でもある。人物の名は松村劭(つとむ)、60歳。元陸上自衛隊陸将補である。
「防大2期出身。陸自指揮幕僚大学、インド国防参謀大学卒業、米国陸軍指揮幕僚大学名誉卒業。そして陸自では85年に
退官するまで情報幕僚、第七戦車大隊長、防衛(日米共同作戦)幕僚、西部方面総監防衛部部長などを歴任」
 これが松村の略歴である。とくに、76年、日米安全保障条約を実効性あるものにするための日米協議には陸上自衛隊を
代表して臨席した。日米共同作戦について、その実態を最も深く知る人物である。そして彼は、米国の将校たちから「ア
タック・トム」と呼ばれた。それは、彼の戦術も、気性も攻撃的であるからだが、同時に陽気でやんちゃな面も指していた。
だが彼らは、充分に知っている。この「アタック・トム」こそは、日米安保を最も真剣に考え、実質作り上げた男だという
ことを。
 今年に入り、米国で唱えられ始めた「日米安保破棄論」に日本は動揺を隠せないでいる。チャーマーズ・ジョンソン日
本政策研究所長らが、米国の外交専門誌『フォーリン・アフェアーズ』7・8月号で日米安保条約解消を主張する論文を
掲載したのがきっかけであった。
 安保堅持か破棄か、日本では既に決着した課題だけに、冷戦終結後の国際情勢の変化を突きつけられた形となった。い
っぽうで、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の核疑惑、中国・台湾問題など、極東アジアにおける不安材料も噴き出し
ている。日本にとっての安全保障問題は、まさに今日、そして将来においても大きな課題となってきている。
 日本は、安保をどう考えるべきなのか。戦後50年、大半の国民は日米安保体制の中、自国の安全保障を考えないですん
できた。だが、今や、安保ただ乗りの時代は終焉を迎えようとしている。この機に「安保」を考えてみたい。松村も身を
以て見聞してきた日米安保、そして自衛隊が果たしてきた任務の実態をできうる限り国民に語るべき時がきたと考える。
そして国防のため一自衛官がどう考え、どう行動してきたかも告白し、国民の審判を受けるべき時だと。

シーン2:60年6月15日 自衛隊「治安出動」への「待機命令」

「安保」と松村との関わりは、まず60年安保から始めなくてはならない。それは日米安保をどう評価するか、国論が二分
した時代のことである。
 終戦から15年目のこの年、松村は防大を2年前に卒業、群馬県前橋の西部にある第一戦車大隊の小隊長になってまもな
い頃である。
 58年6月第2次内閣を成立させた岸信介は、前年度の在日米地上戦闘部隊約20万人の撤退を受け、安保改定に動いた。
同年9月に藤山愛一郎外相が、米国務長官ダレスと会談、安保条約の改定に合意。10月には岸首相は米NBCのインタビュー
に「憲法9条廃止の時」と答え、安保改定と同時に憲法改正を政治日程として組む用意があることを示唆した。
 今日でいう、「普通の国の軍隊」を持つ国家へと脱皮を計ろうとするこの動きは「軍国主義復活の目論見」であるとして
野党は危機感を強め、59年3月には社会党、総評、原水協などが日米安保条約改定阻止国民会議を結成。そして4月の第1
次統一行動を皮切りに、安保改定阻止の請願デモがスタートすることになる。
 反対運動はしだいに拡大し、59年11月の第8次統一行動では、全学連のデモ隊が扇動し国会構内へ2万人が突入する事
件が起きる。60年に入ると、米大統領アイゼンハワーの来日日程も決まり、5月には自民党が単独で新安保条約を強行採決。
以後国会は空転状態となり、連日国会デモがつづいた。
 そして、衆院通過1ヵ月後6月19日の自然成立の日にむかって、国会周辺デモはその数を増大させ、5月26日には17万人
という空前の規模となる。6月4日の国労など早朝ストには、全国で560万人が参加。10日 米大統領秘書官ハガチー来日
では、羽田でデモ隊に包囲され米軍ヘリで脱出する事件も起きる。
 ここに至って岸首相も危機感を募らせ、治安維持に自衛隊を出動させることを真剣に考えるようになる。この頃、自衛隊
の治安出動の準備はほぼ整えられていた。4月下旬から指揮所演習が始まり、当時の杉田一次陸上幕僚長が赤城防衛庁長官に
説明し、了解を得た。それは命令があれば、東部方面総監部約2万人が一挙に治安維持に投入されるという計画であった。
だが、それ以上には今日に至っても、当時の自衛隊の動きはつまびらかにはなっていない。果たして、自衛隊はどういう態
勢にあったのか。
 松村にしてみれば高度な政治問題は国会で偉い先生が討議するものであり、彼自身は訓練に没頭していた時代である。
 その日も、松村は小隊長として、訓練の指揮をしていた。2週間前から50両余の戦車が前橋駐屯地から富士の演習所に集
まり、戦闘訓練に明け暮れていたのだ。松村の顔の髭は伸びを増し戦闘服には青草の匂いが染みついていた。やっと長い訓練
が終了し、全車両が前橋に向かい帰ることになった。
 午後3時ころ部隊は御殿場に下りて、国道246号線を通って帰隊し始めた。富士の演習所から約60キロ離れた厚木に着く
頃には、とっぷりと日が暮れていた。あとは厚木から国道16号線に入りさらに国道4号線に出て、そこから前橋のほうへ向
かう予定である。
 もう少しで埼玉県の川越に着くという地点だった。前方部隊から「大休止」という指示が伝えられ、松村の二中隊も戦車を
全て路端に止め休憩した。すでに夜9時ころになっていた。当時戦車大隊の通信は「508無線機」と呼ばれる米軍から供与さ
れた物を使用していた。しばらくすると、松村の無線機に「第一戦車大隊は、これから朝霞駐屯地に向かって前進する。川越
街道を通って、朝霞へ行け」という指令が飛んだ。
 突然の方向転換である。松村は訝しげに思いながらも、自分の小隊5両にさらに伝え、やがて戦車大隊すべては朝霞駐屯地
へ到着した。だが、普通なら通信機や機関銃を全部下ろして安全な体制にするはずなのに、「銃はつけたまま」「通信機も付
けたまま」「整備だけをやれ」。加えて「指揮官は全部大隊本部に集合しろ」という命令がなされた。松村は小隊長。指揮官
の中隊長が集まって行った。しばらくすると、中隊長が戻ってきて、松村に青ざめた顔で言った。「東京は大変だ・・・・・・」。
 1960年の6月15日、まさに安保闘争のピークとして歴史に刻まれる、その夜のことである。
 この日、安保改定阻止第2次実力行使には全国で580万人が参加、国会周辺でも警察官とデモ隊、そして右翼などが入り乱れ
ての激しい攻防戦がつづいた。警官は警棒を振り上げ、放水し、全学連は投石し、プラカードの柄をふりかざして打ち合った。
右翼のトラックがデモ隊の中に突っ込むなど、負傷者が双方に続出していた。
 そして、最悪の事態が起きたのは、夜7時過ぎのことだった。南通用門から国会構内に入った学生たちの中に、東大生樺美
智子さんがいた。警察隊の突入と同時にスクラムは乱れ、乱闘状態となった。転倒する学生もいたし、警棒で殴られる学生も
いた。警察病院に運ばれた樺さんの死亡が報じられたのが、夜7時30分頃であった。死因は窒息死か内蔵出血との発表。「人
殺し」、激昴した学生や市民たちが警察官たちに罵声を浴びせた。真夜中の0時頃には警察輸送車が放火され3台が炎上すると
いう内戦さながらの事態になっていた。
「今夜は何が起こるか分からない。いつでも治安出動に行ける体制をとれ」
 中隊長は指令を告げ、さらにこう付け加えた。
「暴徒は戦車に向かって火炎瓶を投げる。野戦で戦車を使うようには使えないから、ただちに火炎防護カバーを戦車に付けろ。
ついては、そのカバーは前橋の駐屯地に全車両分置いてある。大隊は全車両ここに残置して、しかも2週間の長い野営だった
から全員トラックで前橋に帰る。で、翌朝防護カバーを持ってきて、次の6・18集会の対処のための準備をする」
 そこまでの命令を伝えた中隊長は最後に「松村、おまえの小隊は残って、大隊全部の戦車の番をしろ」と言った。松村はそ
れを中隊長の自分に対する信頼と受け取った。

シーン3:60年6月16日 デモ隊へ「奇襲」

「東京は大変だ」。中隊長の言葉以上には、状況は分からない。少なくとも行進してきた街道沿いでは、普段となんら変化は
ない。果たして、東京はどう大変なのか・・・・・・。翌朝、6時頃目を覚ました途端、松村は「ジープを用意しろ」と指令を飛ば
した。そして車を運転してきた若い隊員に言った。「東京に行くぞ」。
 もちろん命令もない。違反行為である。だが、もし治安出動があるなら、いずれ偵察が必要になる。自分が先に任務を果た
しておこうというつもりだった。と同時に若く、部隊でもすでに血気盛んぶりを見せていた松村の血が騒いだ結果でもあった。
 オープンにしたジープは、川越街道を一路東京へとひた走った。戦闘服に拳銃を携帯したまま、松村は助手席に座り、前方
を見据えていた。やがて池袋に突っ込むと、「引き返せ。こんな混みそうなところを戦車が走ってくるわけにはいかん」。け
っきょく、環七を板橋本町まで引き返し、そこから大宮から来ている国道4号線に飛び出し、巣鴨を通過して白山通りから皇居
へ。そして皇居の周囲を反時計回りに一周して二重橋へと出た。
 松村は偵察に出る時こう考えていた。もし2日後の6月18日に治安出動の命令が下った場合、皇居と国会議事堂を守ること
になる。しかし前橋にいて、松村をはじめ東京の地理に不案内の隊員も多い。まず先頭に立つだろう小隊長の自分が土地鑑をつ
け、また実際の治安出動にあたっては、どこに戦車を置けばいいのか、どこでデモ隊をブロックするのか、戦車に火炎瓶を投げ
るとすればどのビルディングからか、自分の目で確かめることであった。
 あちこちにプラカードや棒、石、ビラなどが散乱していて、まさに兵(つわもの)どもが夢の跡の様相だと、松村は思った。そ
して皇居から国会議事堂へと向かうその時であった。松村は走るジープの前方に20〜30人たむろしている反安保グループがい
るのを発見した。
 プラカードを持つ者、放り投げている者、旗を持つ者。しかし、それは総じて、戦い疲れている風情であった。そのほとんど
が、道端にへたりこむように座っていた。とはいえ、こちらが戦闘服を着た自衛隊員であることが判明すれば、たちまち取り囲
まれる可能性もある。しかしUターンするのもみっともない。
 ジープが彼らの横をとおりすぎていこうとしたその瞬間、松村は「よっ。おーい」と言いながら、手を挙げた。すると、その
声に「おー」と反射的に手を挙げかえすのが見えた。ほとんどは呆気にとられている。笑っている者さえいた。松村は、奇襲の
原則を使っていた。
 目的を達した松村は、朝霞駐屯地へと帰隊した。やがて前橋から火炎瓶防護カバーを運んできた隊員たちが戻ってきた。防護
カバーは厚さ2ミリほどの薄い鉄板で、横5メートル、縦3メートルの大きさに作られていた。これを戦車のエンジンがある後方
に覆いとしてすっぽりとかぶせ、投げられた火炎瓶からこぼれるガソリンの流入を防ぐ目的があった。
 松村は、この防護カバーの存在を、前年の末デモ隊が国会に突入する事件があった直後から武器部隊が作成していたのを見知
っていた。場合によっては、治安出動に戦車が出る可能性もあり、その準備体制を一応とっておくというのだが、松村は、歩兵
部隊ならまだしも、戦車が出動するケースなどまずありえないだろうと考えていた。
 自衛隊が治安出動する時は、警察だけでは鎮圧できない騒乱になった場合だが、そんな状況は考えられなかった。報道などで
知る限り、デモ隊のほとんどは労働組合員であり、いわば市井の人々である。せいぜいほんの一部が火炎瓶や投石をする程度で、
警察力で充分間に合うと思っていた。
 さらに「反安保」の考えが、多数の国民の支持を得るとは思えなかった。仮に日本が日米安保を破棄すれば、米国は日本を敵
陣営に入ったものと見なし、たちまち経済封鎖を敷かれるだろう。自由主義陣営を離れれば日本が立ち行かなくなるのは明白。
こんな簡単な理屈がわからないほど日本国民は愚かではないとの思いもあった。
 だから松村は「反安保闘争」がこれ以上広まることもなければ、先鋭化することもなく、まず自衛隊の出動はないと踏んでい
た。ましてや戦車などの出動は、考えるべきではないと思っていた。上官からの問いにも、そのように進言していた。
 それは戦術的にも、得策ではないという思いがあった。戦車を出すという考えには、相手に恐怖感を与え、鎮圧が容易になる
という読みがある。だが、もし相手が怖がらなかったらどうするのか。万が一、戦車を燃え上がらせることに成功したら、それ
こそデモ隊は興奮し、逆に自衛官も逆上し、大きな暴動と不測の事態を招くことにもなりかねない。治安維持活動に戦車を出す
ことは、得策ではないと松村は危惧していた。
 しかしここに至っては、現実的に考えなくてはならなくなった。中隊長からも「松村、何かいい方法はないか。君ならどうす
る」と聞かれる。松村は一人になって、考えられる限りのシミュレーションをし、対抗手段のアイデアを生み出そうとしていた。

シーン4:60年8月 戦車に催涙ガスを搭載

 戦車が出れば、火炎瓶を投げるだろう。その防護カバーはある。最も困るのは、戦車によじ上がってきた場合だと思った。い
くら鎮圧とはいえ、戦車に近づく同じ国民を、自衛官が戦車で轢くわけにはいかない。戦車の包囲でもみ合いになれば、何人か
がよじ上がってくる。どうしてそれをとめたらいいのか。 松村は、一計を案じた。それは「電気ムチ」の原理であった。当時の
戦車M24は、いまでいう軽戦車で重さが20トン。そのエンジンを回しているバッテリーは、24ボルト。普通のボルト数より高い。
それを2個積んでいた。
 松村が考えたのは、その2個のバッテリーから変圧器をかけて、線を引っ張り出す。そして2メートルくらいの棒の先に、革製
のピラピラのムチを付け、そのムチに電圧のかかる線を巻き付ける。そのムチに触れば、当然ものすごい電気ショックが走り、
驚いて転げ落ちるだろう。
 電流量はたいしたことがないから怪我をさせることはない。松村は自分でも試し、効果をたしかめた。これで近づく者は止め
られる。しかし遠くから来るのをどう支えるかが、次の課題となった。
 6月18日は出動命令は出ず、結局1週間ほど朝霞で待機したあと、第一戦車大隊は前橋の駐屯地へと戻る。そして結果的には、
60年安保で自衛隊が治安維持に出動する機会はこなかった。6月19日の日米安保条約の自然成立を受け、岸信介が退陣表明。ひ
とつの結末が訪れ、反安保闘争も急速に終息していく。
 ただ自衛隊内部では、今後の治安維持を考慮して、研究は続くことになる。松村の記憶では、8月頃である。
 朝霞駐屯地で、六本木・防衛庁の制服組の幹部を招き、各部隊の研究成果のお披露目が行われていた。主軸は、歩兵部隊が、
どうデモ隊を鎮圧していくか、訓練の成果を見せるものであった。
 いっぽうで松村も、ある研究の成果を見せることになっていた。それは戦車に近づかないうちに、どうデモ隊をブロックし、
後退させて分散させていくかの課題に対する回答であった。
 松村の乗るM24戦車から50メートルほど離れた地点にバリケードが作られていた。そしてこれから始まる実験を見学する、防
衛庁で治安出動に関係した幹部たちの姿があった。やがて戦車から噴き出された液体は放物線を描き50メートル先に扇状に落下
していった。もうもうと立ち上がる気体は、催涙ガスである。
 松村が催涙ガスを考案したきっかけになったのは、大戦中米軍がM4というM24より一回り大きな戦車に火炎放射機を積んで使
用したということを聞いたからだった。それは火炎材料を噴き出し、火を付けて燃え出す仕組みになっていた。松村は、火の代わ
りに催涙ガスを噴き出せないかと考えたのだ。
 サイズの違いが懸念されたが、M4用の火炎放射機は細工をすればM24に積み込むことができた。中に催涙ガスを積んで、噴き
出してみたが霧状に散ったガスで自分たちが咳き込むはめになった。そこで火炎放射機で使用する重油系のゲルカ剤を混ぜてみた。
すると粘りのあるゲルカ剤に混ぜた催涙ガスは、なかなか気化せず、50メートルは飛ばすことに成功した。
 一度服などに付着すると、2〜3時間でも涙が止まらない。松村考案の催涙ガスは大好評を得、ここ朝霞駐屯地でのお披露目
でも幹部の受けも良好だった。今度は、実際に自衛官をニセ暴徒に仕立て、その効果のほどを見てみようということになった。
 再び50メートル先のバリケードに向かって、催涙ガスが噴き出されていった。ニセ暴徒役の自衛官たち50人余は、たちまち蜘
蛛の子を散らすように逃げ出した。幹部たちがその威力に感心しながら、やがてバリケードあたりにざわざわと集まり出した。
 と、その時、一人の幹部が近づきながら満足そうにタバコに火を付けた。それは、思わぬ実験効果となって現れた。ライターで
付けた火は、あっという間に空気中を走りぬけ、バリケードやそこここに落ちているゲルカ剤と催涙ガスの塊に飛び火していった
のだ。花火大会でナイアガラを見るような光景であった。
 松村も幹部たちも、あちこちで燃え上がる炎の柱に呆然としながら、濃密にゲルカ剤が付着したバリケードがぱちぱちとはじけ
る音を出しながら黒鉛を上げるさまを眺めていた。
 今、松村は当時を振り返り、自衛隊が治安出動に出ずにすんだことを幸運だったと思う。やはり普段、戦争に備えて訓練してい
る自衛隊の鎮圧行動は、警察力の規模をはるかに超える。その結果を仮定することはできないが少なくとも、国民を敵に回すこと
がなかったことだけでもよかった。あのまま催涙ガスを使用して、もし国民を焼き殺すことにでもなっていれば、と思うと、胸を
なで下ろす。
 だがいっぽうで、松村は「もしあの時、政治家が本気になって、命を懸けて信念を通していたなら、自衛隊は動いたはずだ」と
思う。自衛隊が鎮圧し国会で憲法改正を行っていれば、その後の「日陰の自衛隊」はなかったはずだと。
 以来、今年のオウム事件まで、出動準備はしたものの、戦後実際に自衛隊が治安出動に出たことはない。60年安保―――それは、
日本の政治に大きな影響を残した。
 松村はその時、初めて日本の政治家への不信を感じた。やがて松村が自衛隊の中枢に入り、日米安保を自らの手で協議すること
になった時、その思いはある行動を喚起させることに繋がる。

(1回・終了)

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