Hi-Fi な出来事 Hi-Fiな人々 NO.1 斎藤 哲也


 「癒し」と「自己実現」がシーソゲームのように行ったり来たりしている。

 一方では、くたびれちゃった人が「癒し」を求めて、毎週のようにマッサージに通い、アロマテラピーやらヒーリングミュージックやら、五感総動員で疲れを取ろうとしている。「そんなにしたら、五感が疲れちゃうんじゃないの?」と思わないでもないが、それはおくとして、不況真っ只中のここ数年(いや十数年か)、疲れている人は急増中だ。

 それを見て「癒しの時代」というのは早計だ。だって、シーソーのもう一方を見てごらんよ。相変わらず本屋に行けば、金持ち父さん系の金儲け本は売れてるし、自分探し、自己実現といったジコケーハツ本はサラリーマンやOLの定番じゃん。「なりたい自分になる!」と威勢のいい人もきっと相当数いるに違いない。

 それは個人のなかでも矛盾なく同居している。余暇の時間を割いて、英会話や各種資格など、ケイコとマナブに精を出したかと思えば、その翌日にはマッサージやカイロプラクティック。ヒーリングミュージックを聞きながら試験勉強。こうして癒しと自己実現は、相互補完的に循環していく。

 そんな生活でも満ち足りている人は、それでいい。そういう人には、これから僕が書こうとしていることも、余計なノイズにしか聞こえないだろう。皮肉で言ってるのではもちろんない。何ひとつ不満なく生活できているのなら、それに越したことはないし、わざわざ厄介なことを考える理由なんて見つからない。考えすぎることの不幸ってあるもんね。

 でも、世の中そういう満ち足りた人ばかりじゃない。切迫した危機はなく、さしあたり日々をやり過ごしてはいるものの、どこか上滑りな感じがする、毎日に手ごたえ歯ごたえがない――そんな不全感や空白をどこかに抱え込みながら、「この私、なんとかならないものか」とどんよりしている人も少なくない。

 正直にいえば、僕もそんな「どんより」な一人だ。いや、正確にいえば、「どんより」するときもある、といったほうがいいかも。どうやって「どんより」をまぎらわせているのかといえば、僕の場合は、生活の中で違和感を覚えたことを、本や人の意見を参考にしながら自分で考えていく。そうやってつらつら考えたことを、時々自分の個人サイトに綴っている。

 それだけでも随分とスッキリするんだけど、今回、「ハイファイレコード」のプレジデント、大江田さんのお誘いで、好きなことを書くチャンスをいただいた。で、この機会を活用して、いままで断片的に考えてきたことをもう一度じっくり練り直してみようと思う。とはいえ、自分の考えをひたすら書いていくのは、とてもしんどい。んなわけで、山下達郎の棚から一掴みではないが、あらためてこれまで読んだ本を読み直したり、世の中に影響を与えていそうな本をダシにしたりしながら、進めていくことにしよう。

 前口上が長くなったけど、いざ本題。

 まずは「自己実現」について考えてみる。僕は、この言葉に生理的な拒否反応を示す性質(たち)なのだが、あなたはどうだろう。「自己実現」という言葉にからみつく気持ち悪さの居所を、内田樹(うちだ・たつる)という思想家は、彼の自著『おじさん的思考』の中で、見事に摘出してくれている。曰く

 「本当の自分を探す」、「自己実現」というような修辞は、その背後に、場面ごとにばらばらである自分を統括する中枢的な自我がなければならない、という予断を隠している。
 その予断ゆえに、いま私たちの社会は、どのような局面でも、単一の語法でしかコミュニケーションできない人々、相手の周波数に合わせて「チューニング」する能力がなく、固定周波数でしか受発信することができない、情報感度のきわめて低い知性を大量に生み出している。(『おじさん的思考』)


 面白いことに、岸田秀という心理学者は、『ものぐさ精神分析』のなかで、「自己実現」ならぬ「自己嫌悪」について、ほぼ同様の指摘をしている。ここでもキーになるのは現実の自分の行為を嫌悪する「真の自分」、つまり「中枢的な自我」だ。曰く

 自己嫌悪は一種の免罪符である。……自己嫌悪によって恥や罪は洗い流されるので、いくらその行為を繰り返しても、「真の」自分の手が汚れる心配はないからである。(『ものぐさ精神分析』)


 上に挙げた2冊はどちらも「思考の快楽」を味わえる愛読書。ぜひ読んでほしい本だが、二人の御仁がおっしゃるように、「真の自分」なんてものを仮構することで、コミュニケーションの感度は低下し、現在の自分は何をやっても免責される。まったくロクなことはない。でもなぜ「自己実現」は株価を下げることなく、あいもかわらず繁盛しているのか? それはこういうことじゃないだろうか。

 今の世の中、建前上は職業選択の自由が保証されている。江戸時代のように、出自や性別によって生まれたときから職業が決まってしまってはいない。それに加えて、家族のため、会社のため、地域のため、社会のため、国家のため――といった「自分以外の何か」のために生きる必然性が見えづらくなった。

 つまり、自由であるがゆえに、自分の生を価値づけるものが、なかなか見つからないのだ。他で見つけることができなければ、自分の中に探すしかない。自分の価値は、自分でしか測れないんだから。こうして、自分以外の価値が低下するにつれて、「自己実現」や「私探し」の株価は上がっていく。それゆえ、「私探し」や「自己実現」が流行るのは、歴史的な必然ともいえる。

 でも、ここには大きな落とし穴があるんでは? それは、自分にとって実現すべき「生きる価値」が一つしかないとされていることだ。「人は何のために生きるか」「人はなぜ働くのか」といった「哲学的」とも言われるような問いは、問い自体のシンプルさゆえに、その解答もシンプルであることが知らず知らずのうちに要請されてしまう。あたかも答えは一つであるかのように。

 でも、ちょっと待った。僕らは、たった一つの価値に基づいて日々行動しているわけじゃない。それは、江戸時代だろうと現代だろうと、原始時代だろうと変わらないと思う。もうちょい落ち着いて、毎日の自分を振り返ってみればいい。そうすれば、「自己実現」という言葉のもつ曖昧さがわかってくるはずだ。次回は、このことをもう少し具体的に考えてみたい。




To 斉藤哲也
 斉藤さんとは、ボクも執筆に参加させてもらった「200CD フォーク伝説の名曲からJ-フォークまで」 の企画・編集者として出会った。メールのやりとりをしていうちに、彼の主宰する「サイトー商会」 を教えてもらって、マジ、はまった。どうやらテツガクについてのおしゃべりと、斉藤さんの仕事の紹介をするサイトに違いないのだが、専門用語が飛び出すこともないし、読みながらこんなにスッキリしたのも久しぶりだ。おまけにこんなに笑ったページも、そうはない。
 サイトで紹介されている本を何冊か買って読んでみて、
内田樹さんが今まさに売れっ子になりつつあることも知った。ついでに言えば、内田さんがかつて3人の仲間と設立した会社の創業者のおひとりが、ハイファイの常連のお客様だった。なんとした奇遇。
  もやもやした頭の中の解毒剤というか、つらつら考えているうちにココロと体を元気にしてくれるものが、テツガクだとはついぞ知らなかった。そんな驚きとともに、思わずお願いしていただいた原稿がコレ。連載してくれるそうです。どうぞ、皆さん、頭のゲームセンターに、ようこそ。(大江田)


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