文をやるにも書く手は持たぬ ―わたしの『いろはかるた説教集』より―
2008年5月1日 碑文谷教会牧師 大三島義孝
「文はやりたし書く手は持たぬ」は新しい表現です。
思いを相手に伝えたいのですが、その方法がないというたとえです。
古くからあったものです。江戸時代、苦海に身を沈めた遊女の様子を歌ったものといわれています。手紙を送りたいが、字が書けないというから、悲しいわけです。
聖書の民は、イスラエルの人々、ユダヤ人といいます。聖書を持っていたように、紀元前の何千年もの前から、文字を読んだり書いたりできました。子どもたちにも、徹底的に教育したわけですから、その識字率というのは、ひいでて高かったといわれます。
日本のように、子女が、字が読めたり書けたりできるようになったのは、明治以降、いえ、戦後のことではなかったでしょうか。
思いはあっても、手段がないというのですが、私は、祈ることをおすすめします。
普通に考えて無理なことは、祈るしかありません。そして、祈りは、神さまに届いています。それが実現するのが、遅れるか、あるいは、余りにも強情な願いであって、そのまままでは、実現しないということもあるでありましょう。
祈る言葉を持つということです。書く手を持たないということのないために、お互い、祈りあいたいものです。そして、神さまが、文をもって答えてくださっていると思うのです。
「この日は言葉をかの日につたえ、この夜は知識をかの夜につげる。話すことなく、語ることなく、その声も聞えないのに、その響きは全地にあまねく、その言葉は世界のはてにまで及ぶ。」(詩篇一九・二―四)