その@ 160mが開放されるまで

(1953〜1966)

 160mバンドの呼び名は色々ある。

日本では「160メーター」叉は「1.8メガ」と言い、外国では「One Sixty」または「Top Band」と呼んでいる。日本でも「トップバンド」と呼ぶ人もいる。WACのアワードやコンテストの賞状には「1.8Mhz」と書かれる。

総て同じものである。

 その昔、無線の黎明期には、アマチュアは波長200m以上を使うべし、とされて長波から追い出され、おかげで短波が遠くまで飛ぶことを発見したわけだが、その200m以上にアマチュアバンドが割り当てられたときに、160mは一番最初のバンドなので「TopBand」と呼ばれたのである。数あるアマチュアバンドの中にあって、最高のバンドだ、と言うことの意味もあるようだ。

 


 

 しかし、日本では160mは割当てる周波数がない、ということで戦後の再開後もしばらく許可されなかった。近距離の通信には最適の周波数であり、VHFがまだ使われていない時だったから貴重な波だったのだろう。

 ところが、外国では多くの国が許可していて、この近距離用である筈の160mでどんどんDX−QSOの記録が作られて行った。特にこのバンドの世界的権威者であるW1BBが1953年に世界で最初のWAC(六大陸交信賞)を完成したことで、にわかに世界中の注目を集め、未知のバンドに対する憧れもあってか急速に愛好者が増えて行った。 

日本でもアマチュア無線再まもない1954年9月にJA1AA、JA1CJ、JA1CRが、そして11月にはJA3AAが電波監理当局にこのバンドの許可申請書を提出したが、ことごとく却下されている。許可の運動はその後も怯むことなく続けられ、昭和33年7月にはJA1AA、JA1CR、JA3AAが郵政大臣宛に嘆願書を提出している。

  左のコピーはCQ誌1955年1月号のDX欄(EdはJA1AA庄野久夫氏)

に掲載されていた当時の160mに関する情報です。

 

 一方、JARLもこの動きを放ってもおけず、機会をとらえて電波監理局に働きかけていた。

 1964年(昭和39年)1月1日からの1年間はIQSY(国際太陽活動最小期観測年)にあたることから、観測に最適な160mをテーマに参加したい、として、JARLは1962年(昭和37年)から本格的な交渉が始まった。

 電波監理局としては160mバンド内で運用されているロランC(1850Khz)及びロランA(1950khz)への混信を懸念していたようであった。

このロラン(LONG RANGE NAVIGATIONの略称)とは、船舶が航海に際し位置測定を行なうための電波であるが、度重なる交渉の結果、1963年(昭和38年)4月、論より証拠、ということで、ロラン受信機に対する妨害はどの程度起こるのか室内実験が行なわれた。最新形のロラン受信機でロラン電波を受信し、このバンドエッヂに妨害波としてSG(信号発生器)から種々の電波をレベルを変えて印可し、その妨害の程度を調査した。

 その結果は、国内周辺のロラン電波に対していずれもSGの出力は80dbまではほとんど妨害にならず、ロラン電波が強く受信されていれば、80db以上加えても妨害は認められなかった。

 それで今度は実際に運用したらどうなるか、ということでJARLが実験局を開局して調査することとなった。

 実験局のコールサインは「JS2A」、発射周波数は1875khz、A1で250W、設置場所は静岡県清水港であった。

 テストは8月28日夜と29日昼の2回行なわれ、港内停泊中の漁船のロラン受信に妨害があるかどうかを確かめるものだったが電波監理局の係官、JARLからも原理事(現JARL会長)以下数名の立会いの結果、妨害なしと認められた。

 


 

 そして待望の160m開放が実現、1964年(昭和39年)4月4日付けで許可された。東京オリンピック開会式の約半年前である。

 A1、1880khzの1波のみ、出力は200W以下で、ロランの受信に妨害を与えるときは直ちに発射を停止すること、1アマのみ、しかも免許期限は昭和40年末までという制限つきであったが、JA1AA等が申請を出してから10年にしてやっと制限付きながら、日本の160mの歴史が始まったのであった。

 その半月後の4月20日、JA3AAは日本初の160mの電波を発射した。しかし、早すぎて誰も相手が居なかった。

それから約1カ月後の5月13日にJA3AA−JA3JMがQSO、これが日本初の160mでのQSOである。

 DXの方はJA3AAがVS1LP(シンガポール)とのQSOに成功、初のJA対オーバーシーQSOとなった。

 また、JA6AKはW6GTI(アメリカ)、DL1FF(ドイツ)、OK1GT(チエッコスロバキア)等やVK(オーストラリヤ)などとのQSOに成功した。 しかし、まもなく期限の40年12月31日は来てしまった。

 その後若干の期間をおいてこの160mは再度許可された。1966年(昭和41年6月から、今度は1907,5khz−1912,5khzの5キロ巾のバンド指定で電信のみ、あとは特別の制限はなく、電信級から各級全てがOKとなり恒久的なバンドとなった。

 

 

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