そのA JA_160m DXの黎明期
1964〜1971 |
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JA3AA もともと160mは他のバンドと違い電波は遠くまでは飛びにくい。その上日本の許可はバンドでなく1880Khzのスポットである。しかも全世界で使用されている1.8のCWバンドとかけ離れているから何となくCQを出してもDXからは応答は期待できない。また、このバンドのDXは戦前の日本では全くやられていないから、参考にするものも無く、どんな伝搬をするのかも見当つかないから手探りでやることになる。 まずJA3AAは許可と同時にVS1LPとスケジュールを組んだ。 今考えれば1880Khzが許可されたのは4月4日付けだから残念なことにシーズンオフである。コンディション的には空電が多いしDXからの信号も弱くなって行く時期なのでお互いにスケジュールを組まない限りDXQSOは無理だったろう。 JA3AAは「とうてい駄目だろう」と半ば諦めながらも毎夜オンエアを繰り返していたそうだが1964年6月27日、この日も0時でNHKの放送が終了し、ビート妨害もなくなったときノイズすれすれに何かが聞こえたので念入りに聞いたところJA3AAを呼ぶVS1LPの信号であった、とのことで、559を送ったところ359を送って来て交信が成立、このQSOが日本の160mにおける初めてのDXとQSOの記録となった。
その後は1880KhZの愛好者も次第に増えて来たが夏場のこととてDXとのQSOは殆ど出来ず始めて経験するバンドとて国内QSOが多く、AJDの完成がとりあえずの目標であった。
JA6AK やがて夏が過ぎて秋になるとこのバンドは空電も少なくDXハンテングのやりやすい時期となる。 宮崎のJA6AKはこの時期を捕らえて目を見張るような活躍をして注目された。以下にその交信内容を一覧表にすると
この時JAで誰が中波同様の1880Khzの電波がヨーロッパまで飛んで行くと予測し得たであろうか。 正に夢のような出来事がJA6AKによってもたらされたのであった。 更に年が明けて1965年1月30日、この日はCQ−WW 160mTESTであったがJA6AKは1805KhzでCQ出す9L1HXを受信、1880Khzでコールするも9L1HXが気付く筈はなく、無念の思いを経験している。同じ周波数が使用出来れば交信出来たであろうと思われる。 アフリカの信号が受信されたのはもちろん始めてであり、その後アフリカからの信号がJAで受信されたのは8年後の1973年になってからである。 こうしてJA3AA,JA6AKをはじめJA1BHG,JA1RST,JA2CLI,JA3JM,JA3UIなどにより160mのDXハンティングが試みられたのであるが、あっと言うまもなく有効期限の1965年12月31日を迎えてしまった。 最後の夜は愛好者の殆どが2300JST頃からQRVを行ない、お互いに名残を惜しみながら最期QSOをしてから、23時59分過ぎにはみんなでKEYを押さえきりにして電波を発射しながら12時の時報で送信機の電源を切りQRTしたのであった。 そのご若干の間をおいて1966年6月から周波数範囲1907.5Khzから1912.5Khzまでのわずか5キロ幅ながらもバンドで開放になり再び160mのDXができることとなった。この周波数帯は世界的にみれば日本独自のもので共通性はなくDXQSOするためにはまず自分たちの許可された周波数のPRから始めねばならなかった。 国によって細かく違うが、大半の国が1800−1830Khzの間を使用できるようになっていたが、USAは各州により周波数の指定が異なり、JAとはもっともQSOしやすい西海岸が1975−2000KhzなのでW6,7は主に1995Khz、KL7は1898Khzに出て来ることが多かった。 東海岸は1800−1825Khz、その他VKが1800−1860Khz、ZLが1875−1900Khz等だったが、このような細かな区分で許可されていたのも1960年代だけで、1970年代に入ると世界の趨勢は1800−1850に移行されて行き、JAだけが孤立して1907.5−1912.5の5キロ幅でハンディを背負いながらのDXハンティングを続けなければならなかった。 さて、前の1880キロ時代は1アマだけのQRVだったがバンド化と共に資格の制限がなくなり、電話級以外は使用できるようになったため人口は一気に増えたが、長いアンテナが必要なのと、ある程度パワーも必要なので爆発的にDXQSOが開拓されて行ったわけではなかった。 その足取りを追ってみると、次のようにして交信カントリーが開拓されていった。
当時設備的には3.5メガより下の周波数が送受信できるリグは国産では生産されていなかったのでこのバンドを受信するためには受信機を改造するかクリコンを付加して受信範囲をひろげたりしていた。送信機はもちろん自作で水晶の発信周波数を強制的に可変させるVXOを作りその後に増幅と終段の簡単な2ステージ程度の送信機を使っていた人が多かった。 アンテナも良くて15メートル高の逆Vや折り曲げたロングワイヤー等の使用が多かったので、「DXを稼ぐ」には程遠かったし、5年かかって10カントリーというペースであった。しかも相手をして貰うDX局には手紙を書いたり電話をしたりで頼み込まねばならなかった。
1.9メガのバンドになってから最初にニューカントリーとのQSOに成功したのは上記一覧表にあるようにJA1PVKである。彼のQTHは東京都杉並区で彼の言うには「東京都内はノイズレベルが高く、家も建て込んでハム人口は日本一でも1.9のアクティビティは最低。フルサイズのダイポールを建てられる人が羨ましい。ノイズのない広い土地にQSYしたい。」とのことだが、TXは6DQ6シングルの30−50W入力に高さ10m長さ30メートルのロングワイヤアンテナとTCS−7を改造してメカフィルを組み込み6CW4二本のプリセレやオーディオセレクトジェクトなどを付加した受信機を使用し1966年12月3日KL7FRYと1st EVER JA のQSOに成功したのである。 KL7FRYはアリューシャン列島の中のアッツ島からのQRVで、彼の設備はヒースのSB−400にCONVを付けて終段は6146のパラ、RXもヒースのSB−300にCONVをつけたものと、アンテナは高さ20m長さ220mのロングワイヤーという設備であった。 彼はW8GDP、名前はEarlで、後年はW5RTQ,K6SEのコールでこのバンドにQRVを続けており、JAからは最も親しまれているアメリカのトップバンダーの一人である。 JA1PVKはそれから約2週間後の12月19日に今度はVE7AKIとの間でJA−VE 1st ever JAのQSOに成功している。
1969年8月29日1500Z、JD1YABがCQを出すとJA1RST,JA0SX,JA7DVE等がコール。 1st ever JA QSOはJA0SXであった。以降43局のJAが交信した。
CR9AK
毎夜4−5局はQRVしているJAなのだが、その日に限って私がQSOし終わっても誰もコールする人もなくVS6DRがCQを繰り返すだけなので、再度QSOし、明晩も出てくれるように頼んだところQRVOKとのことだった。 そしてHere name Bob と来た。W0DXである。 彼の話によれば今夜180FTのロングワイヤーを急遽張ったんだと言う。 そしてQRX,QRXと言う。しばらく間をおいてゆったりしたキーイングでHR NAME IS CLARK ZL2AZ と打って来た。超OT連中がトップバンドファンとは知らなかった。JARLとはだいぶ違うようだ。名残を惜しみつつ明晩の再会を約してQRTした。
翌25日夜、約束通りBobは出てきた。569のレポートを送るとサイドにVS6DR,JA1AEAが居る、とのこと。 次いでJA3AA,JA3JM,JH1LKH,JA3UIの順でQSO、最期に又当局を呼んで来て「CR9AK TOPBAND HOW?」とのこと。CR9はまだQSOしていない。聞いたこともない。是非やりたいと打ったら「OK,OK,AFTER TOMORROW NIGHT 1803/1910」と約束して呉れた。 何しろ急な約束なので、多くのJAの皆さんにQSOして貰いたいと思い翌26日には可能な限りQSPに努めた。 さて当日の27日であるが1930JSTからワッチを開始した。 2005JSTに1805KCで599++のUAらしいコマーシャルのCWに重なってCR9AKのCQが聞こえた。コールするも応答無し。JA3JMも聞きつけてコールするもやはり応答無し。JA3AAに電話連絡。JA3AA,JA3UIもコールに加わりそのうちJA3UIに応答がありQSOに成功、次いでJA3AA,JA7AO,JA3JM,JH1LKH,JA3AHQ,JA3DY,JA8RR,JA3OLIがQSO。 私にとっては丁度10番目のカントリーとBobによってQSOすることが出来て大変素晴らしい夜となった。最期にまたBobが私を呼んできて、「4−5日前にJA1BKのシャックにおいて、お前がW7DL,WA7ILCとQSOしていたのを聞いたが、W6,W7とのベストタイムは何時頃か」とのこと。 BobはCR9をW本国にもサービスしたかったようだがもうW6,W7のSUNRISEは既に過ぎていたので残念であった。 このあと更にJA7MJ,JA3YTQ,JA7DVE,JA0DL,JA8FBHがQSO。 始めてからこの間約5時間、W0DX IARU会長 ボブ・デニストンによるCR9AKはJA3AAの熱意により、日本の160m DXの歴史に残る出来事として記録される運用となった。 |